*** 子育ち12章 ***
 

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「第 6-10 章」


『明日ありと 思う心の 明と暗』


 ■はじめに

 ある本を読んでいたら,しりとり遊びのできない子どもの話が出ていました。友だち同士でしりとり遊びをしていると,一人だけ詰まってしまう子どもがいたそうです。それなりのワケがありました。

 いろんな物の呼び名を思い出せば,子どもにとっては遊びながら言葉の復習ができます。ところで,件の子どもですが,ママからいつも丁寧な言葉遣いをしつけられていました。お箸,お茶碗,お芋,おうどん,お人形,お靴,お醤油,お味噌,お家,おせんべい,お座布団,お友達・・・。この子どもにとっては,「お」で始まる言葉はたくさんあるのですが,その分他の音で始まる言葉が少なくなるという次第です。

 因みに,ママは「おみおつけ」という言葉をご存じでしょう。これは漢字で書けば,「御御御付け」となるそうです。付けに丁寧語が積み重なってしまったのです。話し言葉では,音がひとかたまりになりますから,「おつけ」,「おはし」で一語と思いこんでしまいます。丁寧語のくっつきの「お」が取り外し自由であることは,幼い子どもにはちょっと理解困難かもしれません。

 言葉はもう一人の子どもの糧であるとお話ししておきました。言葉を手に入れて自由に使いこなせるとき,思考回路が作動します。カーッとしたときには口がうまく言葉をはき出せなくなります。思考回路が混乱しているからです。言葉はコミュニケーションの道具ですが,それ以上に自分でものごとを考える道具でもあるのです。

 「おみおつけ」談義の続きですが,「おみそ汁」との使い分けをご存じですか? それは,この言葉のあとに続く動詞で分かります。「おみおつけを食べる」,「おみそ汁を飲む」となります。前者は具が入っているので食べる,後者は汁ですから飲むのです。こうして,言葉はどの言葉と相性よくつながるかによって,物事の実態を明確に表していくことができます。言葉は「文章」で覚えなければ曖昧になります。



【質問6-10:あなたのお子さんは,質問をしていますか?:第2部】

 《「質問をする」という意味について,説明が必要ですね!》


 〇なぜ人とおつき合いをするのでしょうか?

 「聞くはいっときの恥」と言われます。このような言葉がある背景には,人には知らないことを気軽に尋ねない性分があるという洞察があります。知らないことを恥と思ってきたようです。気軽に尋ねたりしたら,「あの人は○○も知らないのよ」と侮蔑の目を招きかねないという恐れもあります。

 ついつい知ったかぶりをすると,あとが大変です。ぼろを出さないように話を合わせていくのに大汗をかきます。結局は,感じ取られてしまって,それこそ恥の上塗りをしてしまいます。それだけならまだしも,その無知に付け込まれて,いいようにあしらわれることも起こりえます。

 「いっときの」という限定に大事な意味があります。ある期間にわたってつきあいをする間柄であれば,知らないことをなるべくオープンにした方が得です。そのときはちょっぴり恥ずかしいでしょう。でも,本当は相手も正確には分かっていないことの方が大部分です。知ったかぶりの底の浅さは大方の常識ですよね。分かっているはずの人も尋ねる人と五十歩百歩なのです。大して恥ずかしがる必要はありません。

 実は,「知らないから教えて」と言ってくる人は,怖い人です。いざ教えてあげようとしたときに,こちらの知っていることが曖昧であることを思い知らされるからです。人に教えるほど知っていない,つまり自分はいい加減に知ったかぶりをしていたことに気づかされてしまいます。それを認めたくないから,知らないといって尋ねてくる人が怖いから,相手を貶めようとする弱さが出てしまいます。

 知らないと言える人は,着実に知っていることを増やしていきます。曖昧にしたまま知っているつもりでいる方が,物事を考えるという面では昼寝をしていることになります。実力とは何となく知っている状態ではなくて,知っていることと知らないことの区分けができる人です。

 人はそれなりに本当に知っていると言えるものを持っています。つきあう相手にそれを見つけて,教えて貰えばいいでしょう。人は自分が知っていることを尋ねられたら,うれしくなって得々と話してくれるものです。近くの親OBに子育てについてお聞きになってごらんなさい。きっと,ニコニコと話してくれることでしょう。身近に知恵を持っている人がたくさんいるのです。つきあいをしない方が損ですよ。

・・・つきあうことで自分の無知な部分が埋まっていくからです。・・・


 〇今?

 「昨日? そんな昔のことは忘れた。明日? そんな先のことは分からない」。昔の映画で,気障な男の台詞がありました。男には子ども心があるそうですが,この台詞はそっくりそのまま,子どもに似つかわしいものです。

 大人になると一年があっという間に過ぎていきますが,子ども時代はもっと長く感じていたと思いませんか。子どもは今日を精一杯生きているからです。大人になれば,明日のこと,一週間先のこと,一ヶ月先のことを念頭に置いて,今日の日を使っています。子どもは今日,幼ければ「今しか」考えていません。

 悪いことをしたらその場で叱るようにアドバイスされます。後で叱っても,子どもにはそんな昔の自分のことなど覚えていないので,効き目が無いからです。蛇足ですが,何かをしようとして失敗したとき,即座に注意するのは間違っています。それは悪いことではないからです。その使い分けには十分注意しておいてください。

 子どもが何かを欲しがるとき,ママが「あとで」と言うと,「今じゃないとイヤ」と逆らうはずです。欲しいのは今であって,あとではないのです。子どもにはあとはありません。あとの自分は全く予測の外にあります。今泣いたカラスがもう笑った,子どもの変わり身の早さに大人は苦笑しますが,子どもにすれば今しかないのですから当たり前のことなのです。

 子どもには,この前とか,これから先といった過去と未来の概念は生来備わっているものではありません。育っていくものなのです。すなわち,子どもの質問の中で,遅れて登場してくるのが「いつ」という質問です。

・・・子どもの時計は,今現在の時刻で停止しているのです。・・・


 〇節目?

 子ども時代には頻繁に通過儀礼が用意されています。お七夜,初節句,七五三,入園・卒園,入学・卒業,誕生日,成人式と祝い事があります。昔は地域での祝い事もありました。大人になれば,何もありません。厄年と葬式が待っているだけです。

 子どもは,昨日,今日,明日という日常生活時間を手がかりに,○年生になったという意識を足がかりとして,時間の流れに自分を位置づけられるようになっていきます。大人には「成人○年生」という節目がないので,漫然と日々を送っていくだけになります。

 子どもの育ちに合わせて節目が用意されているのは,時間の概念を子どもに染みこませるための方便なのです。確かにそれぞれの節目はおめでたいことであり祝う気持ちは自然なものです。それが同時に,子どもの時間教育にもなっているから昔から何処でも続けられてきたのです。

 年中行事も一役買っています。「もういくつ寝るとお正月」という童謡がありますが,この先に楽しみが見えるとき,時間の刻みが自然に意識されるようになります。ただし,子どもにとっての最も実感的な時間の刻みは「寝て起きる」という再生の繰り返しになっています。何月何日などといった抽象的なものではありません。

 暮らしの場では,連休前や夏休みになると,きまってママは「○○に連れて行って」とせがまれます。「今度ね」,「今度っていつ?」,「今度は今度なの」,「今度の日曜日?」,「パパに聞きなさい」。楽しい日曜日が待ち遠しくなる,この節目が一週間という時間意識につながっていきます。

・・・楽しみを待てるとき,未来時間に向けて時計が動き出します。・・・


 〇いつ?

 「もっと遊んでいたい!」。子どもの決まり文句です。「もう,いい加減にしなさい」。ママのいつもの台詞です。子どもの生活指導で「リズム」という言葉が出てきます。「規則正しい生活習慣」とも言われます。どうして,規則正しいことが推奨されるのでしょうか?

 規則正しい方がいいに決まっている,というのではしつけに今ひとつ熱意が込められません。子どもにとっては教育という面で大事なことなのです。規則正しさとは,一つ一つのことをきちんとやり終えていくことです。起きたら洗面,排泄,食事,歯磨き・・・。勉強,遊びはいったんうち切ることで,毎日のリズムができあがっていきます。また,リズムという言葉には,繰り返しという意味が隠されています。一回だけのものにはリズムはありません。

 この繰り返しが大切なことです。「もっと,遊んでいたい」,「また,明日遊ぼうね」。リズムとは,いったん終わり,またあとで繰り返す,その連続です。繰り返すというのは,これっきりではない,明日がある,あさってがある,来月もある,来年もある,またいつか機会がある,というように確実に次につながっている期待感を産み出します。言い換えると,規則正しさは時間の流れを意識させることなのです。

 寝ることによって今日の時間が停止されますが,目覚めたら今日と同じ時間が繰り返しやってきます。今日やりかけた遊びは,明日続きを楽しめます。この日常の時間体験が,物事の順序,前後関係を組み立てる力になり,因果関係を洞察する力になり,こうしたらこうなるという論理的思考を可能にします。規則正しい生活をしていないと,論理的に考える力は育ちません。行き当たりばったり状態のままに立ち往生するしかありません。

 子どもが「いつ」という質問をするようになれば,時間の流れという下地ができてきたことになります。おそらく,「いつ」の質問は当初は,何か楽しいことの予約をするような特別の場合にしか出てこないでしょう。それでも,子どもにとってはとても大切な質問であり,それがいつも意識されるようになれば,質問の育ちは最終段階を迎えられるようになります。

 「走っちゃダメ」と注意しなければならないのは,子どもが「走ったらこけて怪我をするかもしれない」と先を読むことをしていないからです。こうしたらこうなるということを考えるためには,今の行動が先の結果につながるという時間意識が常に稼働していなければなりません。子どもには最初からその基盤が備わっているわけではなくて,徐々に身に付いていくものです。秒針のように,自分の行動をコチコチと刻む習慣を持たせてやってください。

・・・規則正しい生活からしか思考能力は育ちません。・・・


 〇どうすれば?

 ママはいつも先のことが気になります。「このままでいいのかしら?」。子どもについても,来年のことから将来のことまで,ず〜っと心配です。だから今日の子どもの姿が頼りなげに見えてしまいます。一方で,子どもは今日のことで頭がいっぱいで,先のことは深くは考えられません。ママにはそれがまた腹が立つという繰り返しになります。足して2で割ったらちょうどいいのですが。

 子どもに明日意識が芽生えてくると,心配という種も芽生えます。心配は明日を考えるから出てくるものです。明日を考えなければ,心配などすることはありません。明日の自分を考えるようになったとき,「どうしよう?」という疑問は心配系ですが,「どうすれば?」という疑問は解決系です。消極的な思考と積極的な思考の分かれ道になります。性格もあるでしょうが,発問の形が道の選択を左右します。

 最後の質問は,「どうすれば?」,つまり「HOW TO」になります。子どもにとっては最も困難な課題になり,育ちそのものを掛けて解決していきます。育ちという面については,次号で触れることにしておきます。ここで知っておいて頂きたいことは,今の子どもにはこの質問をする力が欠けているということです。子どものせいというより,「どうすれば?」という質問を教えられていないと言った方が正確でしょう。

 「先生がね,明日○○を持ってくるように言ってたよ」。ママは早速調達です。夜遅く子どもが思いだしたら大変です。「もっと早く言わないと,どうしようもないでしょ」。自分が要りようなものは自分で「どうすれば?」と考えさせられるチャンスを逃しています。ママが勝手に取り上げているのです。子どもには無理な場合もありますが,一度は子どもに考えさせて,その後に手助けをすればいいでしょう。

 自分の今の状況を把握して,明日の自分を思い描き,その違いが何かを見つけて,自分ができることをしようとしさえすれば,どうすればいいかが見えてくるはずです。今自分はお腹が空いていて,もうすぐお昼になるので何か食べたい。そこで手近に何か食べるものはないかを探して,あるものをレンジでチンすればいいと解決していきます。そんな自分で考えてやってみた生活体験をたくさんしていると,「どうすれば?」と考えるパターンが自然に身に付きます。

・・・前向きな発想とは自らの手で生活した豊かな体験の結晶です。・・・


 〇質問は?

 家庭教育学級などでは,講演が終わった後,質問の時間を設けてあるケースが多いようです。これまでの経験では,質問があったケースは稀です。そのために,ちょっとしたネタを披露するように準備しています。クマさんの話が質問を呼び込めるようなものではなかったという反省もありますが,一方で,質問をする立場になってみると,自分の恥というか,不都合な点を暴露することにもなるので,みんなの前では憚られます。そのせいでしょうか,講演が終わって会場を出ると,具体的な質問をしてこられる方が多いようです。

 さて,子どもの勉強の場面では,「何か質問は?」と問いかけても,「何を質問していいか分からない」という返事が返ってくることがあります。そうなると,正にお手上げ状態に陥ります。「何処が分からないか分からない」というのも状況は同じです。では,その状況とはどういうことなのかを見ておかなければ,対処のしようがありませんね。

 質問は自分と相手の考えていることがかなり重なっていて,一部に違いが見えたときに姿を現します。学習活動は,「ソウソウ」,「アレッ?」,「ナルホド」というステップを踏んで知識の階段を上ることです。「アレッ」と感じることが疑問であり,質問になります。つまり,段差が見える必要があるのです。マジックはこうなるだろうという思いが裏切られて,「アレッ」と感じさせられるから面白いのです。

 どうしてその段差,違いが見えないのでしょう。それは,「ソウソウ」と言える理解をきちんと踏んでいないからです。自分がすでに知っていることを元にして,そこからは思いもしない展開があったとき,アレッと思います。すべてが全く新しいものであれば,チンプンカンプンですから,アレッとは感じようがありません。教える側の責任です。専門用語が飛び出す契約書やマニュアルは,何処が分からないか分かりませんよね。

 もちろん,種明かしがあって「ナルホド」と進むことができたら,疑問は消えてしまいます。納得できないときに,疑問が質問に転化します。分からないという場合も同じことです。ナルホドという納得は,一段上の「ソウソウ」という理解であることに気付いてください。手品の種も「ナ〜ンダ,そんなことだったのか」というごく当たり前のことですよね。本を読んでいて分からない言葉が出てきたら辞書を引く,「ナルホド」,その言葉は次ぎに出会ったときには「ソウソウ」と分かる言葉に変わります。

 理科や数学の力が落ちてきたと言われています。論理を積み重ねる訓練,「アレッ」と思うことが少ない生活をしているからです。友だちとの話では,意見を戦わせることを避けています。違いに直面して,それをどう乗り越えていくか,お互いに「ナルホド,ソウカ」という所に上る楽しみを失っています。価値観の多様化という言葉によって,未熟な価値観までが正当な立場を主張しているようです。質問しあって,お互いに高め合うことをしないと,理数科だけではなくて,やがて直に人としての力も落ちていきます。

・・・空腹感ならぬ空頭感が,食欲ならぬ知識欲をわかせます。・・・



《質問をするとは,知力の階段を見つけて上ろうとする楽しみです。》

 ○「パパはすごい,何でも知っている!」,幼い子どもはそう思います。「パパはすごい,何でもできる!」,子どもはそう思います。「パパはすごい,いつも何かに挑戦している!」,大きな子どもは思います。「オヤジは偉い,分からないことがあればすぐ人に質問できるから」,成人した子どもにそう思われたいものです。

 ママも子育てに疑問を持ったら,質問してくださいね。はじめての子育てであれば,知らなくて当たり前なのですから,何の躊躇も無用です。「そんなことも知らないの」,そう思う方が無知ならぬ無恥なのです。


 【質問6-10:あなたのお子さんは,質問をしていますか?:第2部】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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