『パパの本 どこをあけても 字ばっかり』
■はじめに
子どもはなぞなぞが好きです。ママはどうですか? パパはダジャレが得意です。しりとりもありますね。言葉遊びの経験は誰でも持っているでしょう。言葉は面白いものです。ところで,「面白い」という字は,よく見ると不思議ですね。面が白くて,なぜおもしろいのでしょう?
かつて人々は夜になると囲炉裏の周りに集って手仕事をしたり団らんしたりしていました。誰かがおかしなことを言うと皆がおもしろがって顔を上げました。皆の顔が明かりに照らされて白く浮き上がりました。面が白くなった,それが起源です。
ママが余念のないおしゃれ,「しゃれ」とはどういうことでしょうか? しゃれは,さらされるという言葉が変化したものです。布がさらされて白くなりますね。ですから,白く塗るのがおしゃれです。黒はいただけません? ところで,ちょっとばかり無粋ですが,しゃれこうべ,そのしゃれもおしゃれと同じ意味合いなのです。
ママになぞなぞです。「アリさんはどうしていつも裸なんでしょう?」。「アリさんが洋服を着たらおかしいでしょ」。ママはいつもまともです。遊びは他愛のないものです。答えは「ありのままに生きているから」です。これを面白がってくれるのはパパです。もし,くだらないとしか感じなくても,遊び心がないというだけのことです。
ありのままとアリ,裸を結びつける連想,その一見不真面目な発想が楽しめるのは,大事なことです。非常識ではあっても,何かのつながりを見つけだそうとする意欲が,創造性につながっているからです。パパのダジャレも,くだらないと一蹴する方が案外と,心狭き人だったりして?
【質問7-03:あなたの家庭では,パパの本棚が生かされていますか?】
《「パパの本棚」という意味について,説明が必要ですね!》
〇いつ話したらいいのでしょうか?
親子の会話がないとか,夫婦の会話がないとか,それは不仲へのパスポートです。一緒に暮らしていれば会話するでしょうにと水を向けても,話すことがないとか,何を話していいのか分からないとか,後ろ向きの返事が返ってきます。
どうも心得違いをしているようです。話すことがあるから話すのであり,話すことが分かっているから話すという誤解があります。何かがなければ話せないという思い違いに気付いて欲しいと思います。会話とは何がなくてもできるものだということを!
スーパーの駐車場に止まっている車にぽつんと留守番しているワンちゃんを見かけます。ワンちゃんには声を掛けてやりますが,声を掛けられないのがお留守番のパパです。ここまで一緒に来て,どうして車にへばりついているのか,スーパー入店拒否症のパパが不思議です。
重たい袋を両手に持って帰ってくる連れ合いを,遅いなという冷めた目で眺め,いかにも大儀そうにシートを起こしています。男女共同参画などどこ吹く風といった風情は,よそ事ながら行く末が思いやられます。そのうち,自業自得の目に合うことを祈りましょう?
冗談はさておいて,一緒に買い物をすれば,食べたいものを言ったり,珍しい野菜を目にしたり,旬の魚を見つけたり,夫婦で同じ場に立てば何かしら気持ちを伝えたくなるはずです。最近見かけなくなったのが大きな子との親子連れです。親子の会話もできるのに残念です。
会話は同じ場に立つことが基本です。夫婦や親子で同じものに向かう体勢を取れば,自然に話ができます。気持ちを向き合わせるのではなく,気持ちを前向きに揃えるのです。
・・・相手に向き合うから,話すことが陰に隠れてしまいます。・・・
〇背文字?
子どもは言葉を摂取したときに人間性を培っていく,これが羅針盤の二番目に掲げる原則でした。言葉のしつけをただ単にコミュニケーション技術のしつけと思っていたら,子育ちの方向を見失います。言葉が人になるための栄養分なのです。言葉の乱れは品性の乱れ以上に,生育の栄養不良であり,だからこそ危惧されています。
子どもたちの国語力が静かに沈んでいます。これは学力全体の地盤沈下です。学校週五日制,ゆとりの教育,それが学力の低下を生むのではという心配が出ていますが,それはもう既に始まっている衰退への追い風に過ぎません。風邪をひいた子どもに吹きつける風です。
子どもの読書離れ,活字離れが症状として目に付いていますが,それでは家庭には活字が豊かでしょうか,読書が日常的でしょうか? 学校でしか読書しないというのでは実効は期待できません。給食だけで身体の成長に必要な栄養が揃うかということと同じです。
子どもの目に付く所にパパの本が並んでいる,そんな環境が必要です。大層な本棚などではなく,ほんの一角でいいのです。そこには背文字の見える本を並べます。背表紙のない雑誌では効果はありません。とりあえずは置いておくだけの積読でも構いません。部屋のアクセサリでも構いません。
パパの学生時代の本や辞書でも並べてみませんか? ママの料理や趣味の本も一緒に並べましょう。大人の本があり,文字が自然に目に馴染む環境を用意します。字といえば教科書でしか見ないという字の貧しさが困ります。子どもに読めない字があっても,字に触れる機会が大切です。
新聞や雑誌のように一過性の流れていく字ではなくて,いつもそこにある字,いつの間にか友だちになっている字,その字がたくさんの友だちを呼び込んでくれます。覚え始めにママがトイレに掲げた五十音の表,そこで環境づくりが止まってはいませんか?
・・・部屋をぐるっと見回して,見える字を数えてみてください。・・・
〇宝探し?
専門的な講義を受けている若者が,用語の意味を忘れたときにどうしているか? 教科書を最初からめくっていきます。数文字の単語を全ページから探すのですから大変です。何度も行ったり来たりしています。皆さんでしたら,どうしますか? そうですね,後ろの索引から調べるでしょう。ほんの数秒で見つかるはずです。
子どもがママに疑問をぶつけてきます。幼いうちは素直に聞きたい言葉がいっぱいあります。「ママは今忙しいんだから,あっちに行ってなさい」と張り手,「ママは今忙しいから,後にして」と肩すかし,「ママは今忙しいから,自分で調べなさい」と押し出し,「ママは今忙しいから,パパに聞きなさい」とうっちゃり,四十八手で応酬します。
子どもが分からないと思っているそのときが,その言葉とのファーストキッスなのです。心がときめいているから,燃え尽きたいのです。後で,そのときは熱はすっかり冷めています。自分で調べなさい,それができるくらいならママには尋ねません。パパに聞きなさい,おはちはパパに回ってきました。
パパが教えてくれたらいいのですが。何を? 答えではありません。「いい疑問だね」,「よく気がついたね」,「パパにもよく分からないな」,「ちょっと待って,調べてみよう」。パパは本棚から辞書,辞典,事典,適当なものを引っ張り出してきて,子どもの目の前で,探して見せます。「あった,ここに書いてある。読んでみようか」。
子どもは宝探しが好きです。言葉の宝探しと見立てれば,辞書類は宝の地図であり,知識の宝庫です。どこにあるかな,見つかるかな,あった! その瞬間にときめきが昇華します。そのわくわくする冒険を,パパには教えてほしいものです。その手間をかけることが,言葉の記憶プロセスなのです。すぐに答えを教えられたら,そのときは画面に書き込まれますが,興味というソフトを閉じた途端に消去されてしまいます。確認のウィンドウは開きません!
・・・疑問は宝探しの興奮を呼び起こすプレリュード(?)です。・・・
〇情報化?
ある子どもの耳に残っているパパの言葉,「オイ,元気か,勉強しろよ」の三つだけ。男は無口で,背中を見せておけばいい。情報化の中で,そんなパパの存在は見過ごされていきます。男の生き方が変わっていることを,当のパパがまだ理解していません。
パパには,見る人が見たら分かるはずという受け身の甘えがあります。期待をかけている見てくれるはずの奇特な人はもういません。時代が変わっています。情報化と言われている理由は,現在は発信の時代だということなのです。発信しない限り,誰からも受信してもらえません。
不登校になった男の子が語っています。学校で自分の存在感が得られなかったから,と。誰からも大事にされなかった,認めてもらえなかった,それは無視されるという他者からの危害ではなく,注目されないという自らの甘えです。パパが感じている家庭での存在感のなさも同根です。
パパの権威を失墜させただめ押しは給料の振り込みである,とパパ族は述懐しています。確かにお金は金融機関から引き出されるので,そこにはパパの姿はありません。パパはいったい何のために働いているのか,実感として子どもには伝わりにくくなっています。もしかしたら,ママまでも?
金の切れ目が縁の切れ目です。パパはこの言葉を特別なケースのみに限定されると意識していたはずです。それを夫婦や親子関係にまで適応させてはまずいですよね。そんなはずではなかったでは済まされません。
お金じゃないよ,心だよ! もちろんです。そこで,もう一つ前進しましょう。心は通わせるものです。通わせて貰うものではありません。待っていてはだめです。心を開くとは,心の言葉を湧き出させることです。言葉を大事に,心を込めて,温もりを伝える,そうです,パパは自らが生きた本になるべきです。自分の存在を言葉に託して,子どもやママの心に迫りましょう。迫れば開かれるのでは?
・・・くれると思う甘えはくれないという嘆きに行き着きます。・・・
〇言語ソフト?
情報ファイルを交換するときに,文字化けという障害があります。メールの場合には,機種依存文字が使えません。伝わらないからです。OSやソフトが違えば読みとり方が違うからです。英語と日本語もOSが違うから音声の意味がお互いに言葉化けします。同じように大人と子どもでは言葉に対するソフトのバージョンが違うので,時折情報が変換不能になります。
人はそれぞれパーソナル言語ソフトを使っています。学校という共通システム化のフォーマットを受けてはいますが,インストールするフリーウェアやシェアウェアが違うために,微妙に違いが組み込まれていきます。例えば,「犬」という単語が読み込まれたとき,どんな犬をイメージされますか? 第1候補,第2候補,・・・。人によって違うはずです。
子どもの言語ソフトはテキストファイルしか扱えません。言語飾りや罫線などの付加情報は消去されます。親が子どものためを思って言う言葉も,そんな親の気持ちのあやは無視されて,言葉だけが受け取られます。そこに親子会話のじれったさがあります。
夫婦の間にはもっと複雑なファイルの交換があります。ママがグラフィック情報を伝えようとしても,パパはピクチャーソフトを勤め先に置いてきているので読み込めません。家庭に共通のソフトをお互いに組み込んでおくことが必要です。パパは会社だけで生きてるわけではないのです。
夫婦の会話で,「あれ」と言っただけ通じるということがあります。「あれ」の変換第1候補が一致するからです。日頃から言葉を交換していると,体内辞書が学習するからです。パパの体内辞書はママの辞書と十分に交換していますか? この辞書ファイルもパパには大事な本棚なんですよ。
・・・家庭内LANの整備をしないとアクセス不能になります。・・・
〇読み?
読み書きそろばんと言われます。まず読むことから始まります。読めなければ始まりません。成長のはじめでは看板の字を読んでいましたね。読むことは字の世界への入り口であり,最も基本的な知的能力です。ところで,読み書きそろばんには「話す」という項が欠けています。それは字を知らなくても話せることから,学びとしては除外されています。字の世界は別格なのです。
字が読めるということの意味を振り返っておきましょう。小説を手にして読む。それは見ず知らずの作者との交換です。時代を超え,所を変え,あらゆる人とのコミュニケーションの広がり,深さに関われることです。言い換えれば,人類文化の海に浸るためのフリー切符です。図書館に行けば,膨大な字が集積されています。それを読めるということが,人としての成長に向けた知識の消化作用になります。
学校に行くのがイヤという思いを誰しも抱いてきたことでしょう。でも,学校に行ったから,字が読めるようになったのです。字が読めるようになったら,そこから先は自習ができます。自習をしなければならないのです。自分が食べなければ自分の栄養にはならないからです。
耳学問という言葉があります。確かに新しい知識が字になるまでに時間の遅れがあり,耳で聞く方が早いのです。しかし,それとても聞いて分かるだけの素養を持っていなければ,消化することはできません。話す聞くことの弱点,それはおしゃべりを聞いていれば分かります。まとまりがなく,整理されてなくて,曖昧で,結局何をおしゃべりしたのか分からなくなることが多いものです。
知恵を蓄えようとするなら,字を読みこなすのが一番です。そのために人類は字を作ってきたのですから。健康を保つためにママは食事の栄養に気配りしていますが,パパは知恵の滋養である本に心配りをしてほしいものです。子どもたちの心の弱さや乱れは,家庭から本が消えたことと無関係ではありません。自習する教材を失って,滋養不良になっているからです。因みにテレビは話す聞くが主ですから,インスタント食品並だと思っておけばいいでしょう。
・・・字を認識し意味を引き出す神経回路の組み上げが人としての育ちです。・・・
《パパの本棚とは,子どもの心と知恵の滋養を蓄えた冷蔵庫です。》
○弁護士の高林鮎子(テレビ)が「時間表を見るのは好きじゃないのよね」という台詞を語っていました。こう言っては失礼なのですが,ママには好きとか嫌いという感情から入る傾向があります。そうならば,時間表を読み解くことを苦にしないパパがサポートしなければなりません。
ところが,お家に帰ったパパも,やはり好き嫌いを丸出しにすることが多いようです。外での反動だと察しはしますが,やはりママへの甘えに見えてしまいます。やせ我慢できなくなったことに男の弱さを見てしまうせいでしょうか? クマさんの繰り言であることを願います。
【質問7-03:あなたの家庭では,パパの本棚が生かされていますか?】
●答は?・・・もちろん,「
イエス」ですよね!?