*** 子育ち12章 ***
 

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「第 7-02 章」


『パパの目を 奪うテレビに ママが妬く』


 ■はじめに

 果物の王様と言えばメロンですね。果物コーナーでは祭り上げられていて,贈答品として相応しい地位を確立しています。もっとも差し上げるだけで頂いたことは少ないというちょっぴりシャクな存在です。このようなとき,ケチをつけて溜飲を下げるのが庶民の悲しい性です。実は・・・?

 厳密にいえば,メロンが果物の王様という風評は何の根拠もない詐称なのです。実は,何を隠そうメロンは野菜です。ホント〜? 園芸学上の定義によれば,果物とは苗木が生長して実がなり,その後も何年も実がなる作物のことです。要するに木になる実が果物です。ミカンの木,リンゴの木,柿の木,なしの木などを思い浮かべると,メロンの木やスイカの木はありませんね。メロンやスイカは大根や白菜と同じ野菜なんです。

 メロンは果物か,いや野菜であると分けることが学問上の定義です。分かるとは分けることです。子どもたちは学校でお勉強をしますが,国語,算数,理科,社会と科目が分かれています。知識は分けることで得られてきたという流れがあるからです。分析は分けること,理解も事情を解き明かすことです。バラバラにすることで人は物事を分かってきました。

 子どもはオモチャを分解します。どうなっているか知りたいからです。ところが,分解すると使い物になりません。組み立てる作業が必要になります。それができないと,オモチャを壊すだけになります。情報化の中で育つ子どもはいろんなことをよく知っています。でも,その知識は分解された部品に過ぎません。学校の勉強ができる子は部品には詳しいのですが,組み立てることは苦手です。

 知ることとできることは違います。もっとも大きな違いは知ることはばらすこと,できることは組み上げることであり,全く逆の思考になります。最近,総合学習という言葉が聞かれるようになりました。総合とは組み上げることです。生きる力もできる力を表します。教育の流れが一大転換を目指そうとしています。メロンが野菜であると知るだけでは生きる力とは無関係です。総合学習ではメロンが果物の王様に成り上がった社会の思惑を展望しなければなりません。そこに人が生きていく姿があるからです。



【質問7-02:あなたの家庭では,パパの意向が効いていますか?】

 《「パパの意向」という意味について,説明が必要ですね!》


 〇どこにいたらいいのでしょうか?

 パパがいてよかったと思うときは? 瓶詰めのふたが開かないとき! 高い所にあるものを下ろすとき! そうです。単なる力仕事です。労働以外のことで口をはさむと,「あなたは黙っていて」と釘を差されます。男女共同参画の世の中ですが,参画どころか参加もさせてもらえません。新聞の家庭欄を覗いても,そこにはママと子どもの姿がぎっしりです。パパのことは囲み記事扱いです。

 パパが家庭に寄りつかなくなったのは,確かにパパの方にも無関心という反省の種はあります。でも,家庭にパパの居場所がなくなっているということも見逃せないはずです。パパのものは自分たち家族のものとは別に扱うという仕打ちがあれば,面白くありません。いない方が喜ばれると思わせた責任はあるでしょう。

 自立を中途半端に教えられていると,自立が排他に変質していきます。頼る人を未熟と蔑むようになります。自分はがんばっているから,人もがんばるべきだという押しつけがましさが増殖します。あらゆる面で自立しようとするとオーバーロードになり,心身が弾性疲労に陥り,健全さを保てなくなります。ママががんばる姿は周りには緊張をまき散らします。

 ママにできないことがあってもいいのです。それを自覚できないと,子どもを萎縮させます。私がしなければ誰もしてくれないから,仕方がないでしょ! そう思いこむことが,パパを阻害していきます。パパを信頼してどしどし依頼することです。本当の自立とはできることを持ち寄って,相手のできないこと,無理の強いられることをカバーすることです。

 人が共同生活をするとき,そこに自分の居場所を実感できるのは,「ありがとう」と言って貰ったときです。お互いにありがとうと言えるとき,お互いが自立していることになります。繰り返しますが,自立とは自分一人で生きることとは全く違うことなのです。

・・・人の助け無用というがんばりは人を居たたまれなくしていきます。・・・


 〇男気?

 家庭は落ち着ける場というイメージで捉えられています。落ち着けるとはどういうことでしょうか? そのことをきちんと理解していないと,子どもを甘やかしてしまいます。子どもは家庭では快適な暮らしを保証されていると錯覚します。わがままな子どもに育つのは,家庭がわがままだからです。

 そんなはずはないと思われますか? そうでしょうね。ママが生活の雑用を一手に引き受けて,パパが落ち着けるように気配りし,子どもはちゃんとしつけているんですものね。子どもの要りようなものはママが取りそろえて,万全の準備をしています。ママはそれで落ち着けますか?

 もしも,パパが男だったら,ママがキッチンで後片付けに忙しそうにしているのに,ビールを飲んでテレビにかじりついていることは落ち着かないはずです。平気でくつろぐようなら,それは只の○○殿様です。(ごめんなさい。大事なお連れ合いを貶している口調ですが,気がついて欲しい一念ですから,お許しを)。だって,愛しい連れ合いをこき使うかのような仕儀は,沽券に関わると思うのが,本当の男でしょう。

 家族全員が落ち着いてこそ,家庭です。家族が落ち着くために,ママが一人きりきり舞をしている家庭には,わがままだけが横行しています。それを落ち着けると錯覚しているからです。ママは別だという気持ちがわがままの証拠です。もちろん,ママがみんなに落ち着いて欲しいと願っているからそうしていることは,クマさんにも察しがつきます。ただ,それにアグラをかいている家族の無神経さが悔しいのです。

 片づけものが終わって座ったとき,「やっと終わった」と思いますね。そこから落ち着いた時間が始まります。家族がそれぞれ共同すれば,早く片づきます。それだけ皆が落ち着ける時間を持てるようになります。子どもにそれを教えるのは,パパの役目です。思いやりとは言われてすることではなく,率先して提供するものです。ママに手伝ってと言われる前に,パパの方から手伝うことが大事なのです。

・・・弱きを挫いて気付かないわがままは,育ちを挫きます。・・・


 〇競合?

 子育て環境としての家庭には,安定が求められます。家庭が揺れ動いていると子どもの心は不安に苛まれ,育ちどころではなくなるからです。それだけならまだしも,不安を解消しようと過度の刺激に耽る道を選んでいきます。過激なビデオやゲーム,あげくは万引きのスリルにのめり込みます。不安を忘れようとする自己防衛がそうさせます。

 安定を考えるとき,いろいろなパターンが出てくることでしょう。家族のまとまりとイメージするなら,そこには求心力が必要になります。みんなで手分けして暮らしを維持するといった生活パターンです。かつての貧しい時代には,そうせざるを得なかったから,ことさら意識しなくてもまとまりがありました。今の豊かな生活には,生きることにそれほどの切迫感はありません。子どもは平気でプチ家出に走れます。

 現在の家庭に相応しいもの,そして最も欠けているもの,それは相反するものの競合がもたらす安定です。パパとママという二人親のメリットが殺されていることが多くの問題の基礎でもあるのです。ママの意向とパパの意向が競合しながらバランスしていることが,家庭の安定を作り出します。

 今ひとつピンと来ませんね。パパが子どもを叱るとママが子どもを慰める,ママが勉強しなさいと言えばパパが遊びも大事と勧める,ママが過去の不始末を責めるとパパが未来への期待を匂わせる,・・・。ママにすればパパが逆らっているように思えるでしょう。でも,それが行き過ぎに対する歯止めになりますし,軌道修正の度合いを分かりやすくしてくれます。

 相反するものを受け入れる余裕があれば,お互いの思惑を理解してみようかという落ち着き,相手を生かしながら物事を進めていく沈着さ,ちゃんと説明をしようとする明朗さ,公平な我慢をすればお互いに得するという賢さ・・・,いろんなことがうまく運ぶはずです。ああ言えばこう言うというめんどくささをクリアすれば,そこに安定がもたらされるものです。

 アクセルとブレーキを上手に使うためには,両方が十分に効いていなければなりません。ママがいつでも急きたてる,アクセルだけの家庭は恐いですね。ママが何でもダメと言う,ブレーキだけの家庭は立ち往生します。パパの意向を生かすように取り計らってくださいね。

・・・意見の一致とは十分に議論をしなければ得られないものです。・・・


 〇厳父?

 子どもにルールやマナーを教えることが大事だとは分かっています。でも,どのようにしつけたらいいのか,よく分かりません。いくら言っても言うことを聞かない子どもに,ママはお手上げ状態になります。聞く耳を持たせていないからですが,それはパパの意向が生かされていないせいです。

 どういうことでしょうか? ルールやマナーは基本的に我慢をすることです。自分のあらゆる欲望を自制することから始まります。世の中にはしてはいけないことがある,しない方が望ましいことがある,それを弁えればいいのです。ところが,子どもには弁える力がまだ育っていません。してはいけないという理由が理解できないのです。

 なぜ,「いただきます」,「ごちそうさま」と言わなければならないのか? なぜ,妹を叩いてはいけないのか? どうして,バスの中で大声を出してはいけないのか,おばさんだって話してるのに? どうして,道に空き缶を捨ててはいけないのか,みんな捨ててるのに? ・・・。

 ルールやマナーは,理由が理解できないから守らなくてもいいというものではありません。言って聞かせて聞かなくても,守らせなければなりません。問答無用なのです。よく分からないけど守らなければならない,それを認めさせることがしつけです。しつけは強権を発動して無理強いをするという側面を備えています。それを体現するのがパパの威圧です。

 ママの優しさは必要なことです。優しく言って聞かせることも大切です。でも,それはパパの憎まれ役が背後にあるから生きてくるのです。優しさだけでは芯のある子は育ちません。厳父慈母と言えば古い言葉であり,感情的に忌避されてしまいました。その結果,消父慈母は我が儘っ子,消父厳母は突っ張りっ子,慈父慈母は甘えっ子を育てています。

 慈父厳母になっている家庭も多いかもしれませんが,それもあまり子どものためにはよくありません。それはバランスが取れないという意味で心配なのです。普段傍にはいないパパが厳しく,常に身近にいるママが慈しむ,つまり,厳しさはちょっとだけでいいのです。生き方の柱をしつけるのですから,数の多さは必要ありません。厳父慈母の厳父はちょこっとだけ,「普段は何も言わないけど,怒ると怖い」,子どもにそう思わせるパパであって欲しいですね。

・・・パパの厳しさは世間の風に耐えるための備えなのです。・・・


 〇大丈夫?

 子どもにとって最もうれしいパパの言葉は「大丈夫」という保証です。ママはどちらかといえば心配性です。ママの不安そうな気持ちは,子どもに伝染します。園や学校に出かける我が子を,ちゃんとやれるだろうか,そう思って見送ってはいませんか? そこで,ママは心配を少しでもなくすために,きちんと準備をしてあげようとします。

 パパはそんなママを目の端に留めながら,「そこまでしなくても」と思っています。「自分でやらせたら」,「ちょっとぐらい困らせた方がいいのに」,そう思っているので,つい口にすると,「あなたは何も分かっていない」という一言で却下です。

 忘れ物があってもいいじゃないか! 大事なことは忘れたときにどう対処するかという体験です。一歩引いて育ちを見れば,そう思うはずです。それがパパとしての意向です。困った体験を積み重ねないと,ちゃんとするという動機付けが育ちません。自分で忘れ物しないようにできる子を育てるためには,失敗させることが必要です。子ども時代は失敗する時代なのです。

 パパが「大丈夫」と子どもの背中を叩いてやると,ママは「いい加減なことを言って!」とちょっぴりおかんむりです。意向のすれ違いが起こっています。パパが言う大丈夫とは,事態がパーフェクトという意味ではありません。「いい加減な状態だけど,それは乗り切れるはずだから,思いっきりやって来い。ダメだったら,そのときはパパが後を引き受けてやる」という大丈夫なのです。子どもを信じて任せてみる,それが励ましです。

 子どもは見守られていると感じたら,思いっきり育とうとするものです。「大丈夫」という言葉には,自分を信じてくれているという響きがあります。信じてやることが見守りであり,子どもを安心させます。心配だ,信じられない,そんな気持ちが強いと子どもを見張るようになります。子どもは不安だけを感じます。

・・・ベストではなくベターな状態でこそ,生きる力が育ちます。・・・


 〇卑怯?

 凶暴性,凶悪性,乱暴さといった力の暴走は,どちらかといえば男の領分です。闘争本能による力の使い道を誤ると,とんでもない事態に至ります。男の子には,パパが伝授しておかなければならない秘伝があります。それはプラス面では勇気の発揮であり,マイナス面では卑怯の封鎖です。

 特に,卑怯であるというマイナスの価値観が重要です。男の子が非行に走ろうとするとき,それが卑怯な振る舞いであると感じなければ,止まりません。「大人だって悪いことをしているじゃないか」という逃げ口上が出るのは,自分の中に歯止めの感情が育っていないからです。

 いじめられる子どもがいれば,そこにはいじめる子どもがいるはずです。仕掛けているのはいじめる方です。弱いものに力を向けることは卑怯であるということをしつけておかないと,やがて我が子が加害者になります。ママは我が子がよその子にいじめられないかを心配します。パパは我が子がよその子をいじめないかを心配しなければなりません。

 パパの子育てが切望されて長い時間が過ぎてしまいました。その間に卑怯という歯止めの欠けた子どもがうようよ育ってきました。少年犯罪が伸張しているのは当たり前です。ママは優しい子を望んでいます。パパは卑怯なことはしない子を望まなければなりません。その両方の望みが叶ってこそ,本当に優しい子どもが育ちます。

 社会正義とは卑怯な振る舞いを閉じこめることです。正義といえば悪者をやっつけることというイメージがありますが,子育ての場で正義をしつけようとするなら,卑怯な振る舞いはしないというしつけが優先されるべきです。順序が逆なのです。そこから始めないと,子どもの正義感も決して育つことはありません。いじめている奴を見たら腹が立つ,卑怯な奴は許せない,それが正義感なら,自分の中に卑怯さを嫌悪する気持ちを持っていなければなりません。

・・・身を正す歯止めとして卑怯という尺度は重要です。・・・



《パパの意向とは,人としての生き方を提示することです。》

 ○パパの役割と言えば,社会性を家庭に持ち込むことだと思われています。どういうことでしょうか? 家庭では我が子を育てているという気持ちが強くなりがちです。しかし,家庭は子どもを育てる場でもあるのです。何のこと? 我が子可愛いということでは,世間に通用する,社会で生きていける子どもを育てることに手抜かりが生じかねません。我が子ではなくて,社会の子と言われる意味はそこにあります。そして,それがパパの子育てなのです。

 ママは子どものために何ができるかを腐心します。パパは子どもが社会のために何ができるかを考える立場にいます。帰宅したらくつろぐだけで,たまに子どものご機嫌取りしかしていないと,そのツケは低金利時代だとはいえ,足下をすくうに十分な難儀となって払い戻されるかも・・・?


 【質問7-02:あなたの家庭では,パパの意向が効いていますか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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