*** 子育ち12章 ***
 

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「第 7-07 章」


『パパの手に そっと重ねる 小さな手』


 ■はじめに

 手に職を付けるという言い方があります。職人の技と言いますが,技とは手が支えると書きます。何を支えるのでしょう? 周りにいる人を支えます。その類推はさらに進んで,働くという字は,人が動くと書き,端を楽(ハタラク)にすると読むということになります。人という字は支えられている様を表現しているとも言われます。

 誘導尋問か,こじつけか,巷間の説を拾い上げていくと,一つの方向性が浮き上がってきます。人は共同しながら生きていくものという認識が定着しているようです。仕事をきちんとする,責任を持って遂行する,いい仕事をする,いろんな言い方がありますが,いずれも自分の存在価値を他者を支える構図の中で意識しています。

 お年寄りが集団で生活している施設では,エリートであった男性は女性たちから敬遠され,職人さんがもてるそうです。エリートはうるさく言うばかりで自分では何もできないということのようです。周りの人を支えることをしない,動こうとしないと,浮き上がってしまいます。エリートとは,所詮組織の中でしか通用しない部品なのです。

 エリートとは組織の中での特別誂えの他動部品なので,よそでは使い回しが効きません。手に職を付けたというのは,自分で何かができる自動部品ですから,必ず誰かの支えになれます。ものを作り出せる技を手に秘めている職人さんがもてるのは当たり前なのです。

 そのことだったら自分に任せて下さい,そう言えるものを一つだけ持てれば,気持ちよく生きていけるはずです。それ以外のことは他者に頼ればいいのです。それがワークシヤリングです。借り物ではない,自分の力,それを他者のために発揮できることが暮らしを彩る喜びを産み出してくれます。



【質問7-07:あなたの家庭では,パパを優先していますか?】

 《「パパを優先」という意味について,説明が必要ですね!》


 〇何に気を配ればいいのでしょうか?

 身過ぎ世過ぎは苦労が多いものです。その中でわずかな楽しみを見つけて,日々を積み上げています。仕事だけならまだしも,いろんな雑事に追われて,今日一日何をしたのか思い返す暇もないこともあります。ふっと立ち止まり,このままでいいのかという自問が湧いてくると,奇妙な焦りを感じてしまうことも度々でしょう。生きるということはどこかしら切ないものです。

 とりあえず今日一日を精一杯に生きていくことが大事ですが,よりよく生きるためには,それなりの処世訓も必要です。何の変哲もないありふれた工夫ですが,少なくとも大多数の人が実生活の中で選び出したものであることは,何よりも有効性を保証しています。それらの工夫を子どもに伝えておくのが,ママの果たす役割です。

 子どもたちの社会適応能力が心配されています。大人の目には若者が異質に見えるのは自然なことであり,それが時代の流れによるものであると考えることも可能です。いつの時代も年輩者は若年者とズレを感じてきました。2世代の時代はまだよかったのですが,長寿化が実現したことで,3ないしは4世代が混在する社会になったことから,事態は複雑になってしまいました。

 暮らしのベースを支えているのは価値観です。それが,旧価値,元価値,前価値,今価値,次価値と併存しています。おまけに国際化ということで,他価値まで紛れ込んできました。これが価値観の多様化です。

 一人でぽつんと暮らしている分にはどうでもいいことなのですが,暮らしは社会とつながっているので,それなりのすり合わせが必要になります。子どもたちに社会の常識を持たせておかなければなりません。それがたとえ当人には不愉快なものであったとしても,多様な価値に共通するものが常識の中にあるからです。そうしないと,社会からはじき出されてしまいます。世間がおかしいという面を認めるにしても,まずはその世間で生きなくては始まりません。

・・・世間知を侮らない方が賢明です。・・・


 〇立場?

 歩道を歩いていると,自転車に乗った若者が対向してきます。我が物顔に突っ込んできて,恐い思いをします。器用にすり抜けてはいくのですが,ちょっとした歩行者への気配りが伺えません。人にストレスを与えていることに無頓着です。邪魔だなという気持ちをまき散らしています。

 同じ人間であれば,どうして自分が道を譲らなければならないのか? 危ないと思う方が避ければいいじゃないか! それが今の価値であるなら,前価値までは歩行者という弱者には譲るのが当たり前でした。当たり前が当たり前でなくなった,価値のすれ違いです。

 どちらが道を譲るのかという理由が分からなくなっています。同じ人間でありながら,どうして一方に優先権が与えられるのか,その絶対的な理由などあり得ないと主張しています。社会生活上,人の関係には必ず立場としての強弱がつきまといます。人間社会は常に弱者を優先することで成り立っています。強い立場にいる方に権利の放棄を求めます。

 ここで大切なことは,立場としての強弱ということです。子どもは弱者です。しかし,自転車に乗れば,歩行者に対しては強者に変身します。強弱というのは状況によって変わるということです。この状況に即して自分の立場を読みとること,それが社会生活に参画する基本なのです。つまり,他者に対する自分を見るもう一人の自分がいて,それぞれの立場という相対的な状況の中で,自分の行動を決める能力が求められています。

 社会は約束事によって組み上げられています。そのきまりにはそうしなければならないという原理原則は付随しません。そうしようという申し合わせに過ぎません。遊びにおけるルールと同じです。野球で,どうして三振があるのか,五振ではないのか,原則などはありえません。そうした方が都合がいい,皆が楽しめるからです。

 パパが日曜日,朝寝坊しています。子どもが遊ぼうとしてまとわりつきます。「パパは昨日遅かったから,もう少し寝かせてあげましょ」。今のパパは弱いから,子どもに譲るように教える,そんなしつけのチャンスと考えてください。パパも弱い立場になる,それに気付く気配りが優しさを育てます。

・・・すべきであるという原則は,暮らしには馴染みません。・・・


 〇いいなあ?

 大人になれない若者たち,その予備軍である子どもたちは大人になるのは嫌だなと感じているようです。大人にとって家庭は憩いの場所であったはずなのですが,そうでもなくなってきています。パパたちは一杯やりながらテレビでスポーツ観戦,パソコンゲームやインターネットで一人遊び,年代に応じてその姿は違っていても,自分の世界に耽っています。

 子どもからすれば,つまんないな,といった存在です。自分たちと一緒に暮らしているという実感が薄いと,大人はつまらないと刷り込まれます。パパは何かに夢中で楽しんでいるのですが,子どもにすれば何が楽しいのか伝わらないからです。人と共に過ごすとは,それぞれが同じ場所にいて勝手なことをすることだと覚え込まされます。

 もちろん,遅くまで仕事があって,楽しみに耽る暇などないというパパもたくさんいます。疲れているパパは,「パパ,お仕事がんばってね」という子どもの励ましを気持ちの糧にしています。そこに内面的な喜びがあることでしょう。でも,子どもにはそんな親心は伝わりません。たいへんそうなお仕事をなぜパパはしているのか,疲れるならしなければいいのに,どこかでそう思っています。

 大人社会のことが分からない子どもは,自分の経験の中で物事を判断します。マンガを見て楽しい,外で駆け回っておもしろい,大好きなお菓子を食べて幸せ,そんな優雅な暮らしをおくっています。おもしろそうには見えない大人の暮らしを見ていると,子どものままでいた方がいいかなと思うようになっていきます。

 大人っていいな,そう思わせなければ,大人になりたいと動機付けすることはできません。そのためには,子どもにも分かるような同じところでの違いを見せつけるようにすればいいのです。子どもは子ども,パパはパパと別々であったら,パパはいいなとは思えないからです。

 同じものを食べるのが家族の食卓であり,そこで常にパパが多いという不公平さをあからさまにするのです。大好きなトンカツやケーキはいつもパパの方が大きいとか,パパにはいつも一つおかずが多いとか,差を付けます。「どうして私にはないの」と文句を言うかもしれません。「パパは特別」,「子どもはだめ」という訳の分からない理由でも構いません。大人になれば得する,そのことを教えるのです。その上で,パパがトンカツを半分子どもに分け与えればいいのです。どうせ与えるんだから最初から子どもにたくさん,その手抜きが子どもを勘違いさせてしまいます。

・・・大人は勝手,その気持ちが大人になりたい意欲を点火します。・・・


 〇形式?

 どういうわけか,ママが財布を預かっている家庭が常態のようです。嫁しゅうとの諍いも財布の紐をどちらが握っているかで形勢が決まるようです。国でも大蔵省が威張っています。パパには財布の中身は誰のものだという気持ちがあるので,ときどき諍いが起こります。

 パパの権威が失墜した原因は給料の振込制度のせいだと,多くのパパは思っています。年輩のパパであれば,以前はボーナスを渡すとき,連れ合いに有り難がられたのにとぼやきます。自分の稼いだお金なのに,自分の手には触れないまま素通りする虚しさがあります。単なる感傷に過ぎないと言われれば,それまでのことですが,何か物足りなさを感じるのも正直な感覚でしょう。

 ものごとには形式というものがあります。最近は実質を重んじて,形式を虚礼として排除しています。形式的といえば,古いこと,無駄なことを意味するようになっています。何のために形式が生まれてきたのか,それを感知する能力が使用されないままに錆び付いています。形式とは気持ちを納得させる手続きなのです。理屈の世界は答えのないものには手を出せませんが,だからといって否定するのは理屈の乱暴狼藉です。

 繰り返しますが,形式とは気持ちの落ち着きどころへの誘導です。稼いだパパがいったん自分の成果を手にして苦労に対する納得をします。その上で連れ合いに委託します。そこに信頼関係を確認できるというお互いの納得が生まれます。その形式がなくなったために,納得作用が燃焼できずに放置され,くすぶり続けることになりました。とかく効率追求は人の気持ちの領域を真っ先に侵犯するものです。

 頭では分かっていても,気持ちの中でどうにもならないものってありますね。生身の人間と言うとき,それは気持ちで生きているということを表します。だとすれば,形式は生きるためには欠かせないものになるはずです。

 給料日には,パパに特別なことをしてください。子どもはどうしたのかなと不思議に思うでしょう。パパへの感謝の印という形式をちゃんと言って聞かせることです。誕生日などの記念日は一年に一回です。それはそれとして,毎月一回,我が家の儀式,それが家族皆の気持ちの納得を得る形式であり,絆を結び直すことになります。感謝の気持ちを形式に込めることで,給料の贈呈式も滞りなく執り行われ,気持ちのけりがつけられます。

・・・形式はそれ自体ではなく,従う過程に癒しがあります。・・・


 〇待つ?

 犬を飼うときに,どんなしつけがされているでしょうか? 「お手」,次は「待て」でしょう。お手は,ごあいさつを意味します。次の待ては,共同生活をする上で不可欠なしつけです。自分勝手な行動を控える命令,それが待てというお預けです。

 社会で暮らすためには,「待て」ができる必要があります。言い換えれば「我慢」することです。我慢できない子どもは,しつけがなっていないと評価されて,遠ざけられることでしょう。レジでも,乗降口でも,食堂の行列でも,至る所で順番を待たなければなりません。

 家族のご飯をよそうとき,パパが一番,ボクが二番,妹が三番,そしてママが最後とします。かつての古い家族の形ですが,意外と教育的なのです。ボクが一番ではないこと,ママの手を奪った妹よりもボクが先という名誉?,さらにママは自分のことを後回しにしているということ,いろんな意味が込められています。

 その意味に気付かせる工夫として,たまにパパとママが入れ替わることも考えてみてください。パパがご飯をよそうときには,ママが一番で,最後はパパが自分の分をよそうのです。子どもは大人より後,それが待つことのしつけです。さらに,人を立てる作法?を学ばせることができます。

 もしも子どもを常に一番にしていると,子どもが大将気分になり,一番が当たり前と錯覚します。待たなくてはならないときに,待つことを知りませんから,おとなしくすべき時に騒ぎ立てる恥さらしな仕儀になります。一番であることが自分の正当な権利であると勘違いしないようにするために,パパを優先してみせてください。

・・・パパが「いただきます」を言ってから,箸を付けましょう。・・・


 〇我先?

 世間にはさまざまな序列があります。中にはわけの分からないものもあるようです。特に若い方は,わけにこだわる傾向があるので,受け入れることが難しいようです。相手が年長であるだけでどうして譲らなければならないのか? そういった疑問が気持ちの摩擦を生じています。

 目に見えて分かりやすいのは,組織での職制という序列です。それには権限が付随していますが,その陰には責任体制が張り付いています。責任の所在を明らかにしておかないと,組織の信用が得られないからです。そこに普通は優先順位が現れます。

 家庭は最小の組織です。他者に対する責任は世帯主が背負います。子どもの不始末は最終的にはパパに降りかかってきます。その責任の重さに対して敬意を表するのは,ごく自然なバランス感覚でしょう。そこで,パパには優先するという特典が与えられます。

 子育てに熱心でないパパには,特典がないかもしれません。子どもが何かをしでかしたとき,おまえのせいだと逃げを打つようなら,仕方がないですね。でも,ちょっと待ってください。先に特典を与えて,その気にさせるという手もあります。責任を自覚してもらうために,優先権を利用できます。

 何もエライから優先権があると杓子定規に思いこむ必要はなく,もっと気楽につきあい上の方便であると考えておけばいいでしょう。譲られて気分がよくなってがんばってくれればいいし,譲ってやったと鷹揚な気持ちになっていれば,どちらも幸せでしょう。勝った負けたのプライド合戦は,結局のところ疲れるだけです。

・・・我先の主張は険悪に,他先の余裕が和やかさになります・・・



《パパを優先とは,子どもに世間を教える手だてです。》

 ○ある営業マンが取引先に出かけた折り,たまたまトイレに行きました。手洗い場で年輩の方と一緒になったときです。石鹸水があいにくと年輩の方のほうにあったので,つっと手を伸ばして取りました。その会社での大口の取引がキャンセルされたのは,その後のことでした。

 そのわけは,営業マンのトイレでの行動にありました。年輩の人は社長であり,自分の目の前にいきなり手を出してくるような無礼な奴との取引は止めると言い出したからです。

 それぐらいのことで大人げないことだという考え方もあります。しかし,礼を失することが大きな結果に至ることは世間では珍しくありません。傍にいる人がどれほど自分に関わりを持っている人か,すべてを知り尽くせない以上,誰に対しても一応の礼儀を弁えるしかありません。逆に言えば,自分を後回しにする立ち居振る舞いは,巡り巡って自分の得になるものです。


 【質問7-07:あなたの家庭では,パパを優先していますか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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