*** 子育ち12章 ***
 

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「第 7-12 章」


『パパ一人 いそいそ出かけ 何してる?』


 ■はじめに

 年輩者の口から「いまどきの若い親はなっていない!」という嘆きともお叱りともつかない言葉が語られます。そんなダメな親に育てたのはあなた達ではないのですか,そう切り返してひんしゅくを買っています。自分のことは棚に上げて人を虚仮下ろすことで溜飲を下げる,そんな生き方をしているから育てた子どもが親になれないで苦労しています。

 赤ちゃんが泣きやまないので暴行を加えたという母親が後を絶ちません。母親失格という烙印をあっさりと押されていきます。それでは,今の女の子たちがはたしてどれほど将来母親になるための育てられ方をしているでしょうか? 女として自立するという格好いい育てられ方に,母親というテーマは欠落しているように感じています。

 結論を言えば,母親になることを全く想定されていないままに育てられてきた若い女性に,母親能力を求めても無理なのではないでしょうか? ある日突然母親になってしまって,こんなことは予定してなかった,どうしていいか皆目見当が付かない,そういう状況におかれた若い母親の苦悩を,育てた親は分かってあげようとしているのでしょうか? 母親能力は本能的に湧いてくるものではありません。

 子どもは幼いときに母親の愛情を受けて育てられます。しかし,幼いから覚えていません。大きくなってから母親にしてもらったことは覚えています。そこに記憶の空白があります。はじめて赤ちゃんを産んだママは,自分が赤ちゃんであったときに母親にしてもらったことは思い出せません。どうしてよいのか分からないのが当然です。

 きょうだいが多いときには,お姉ちゃんとして妹や弟の面倒を見る機会があり,赤ちゃんの扱い方を経験し,赤ちゃんとはどんなに手の掛かる存在なのかを思い知ります。このときに母親としての基礎訓練を受けることになるのです。少子化の中,あるいはご近所づきあいのない環境では,子どもの時に赤ちゃんと接する機会がありません。自分が赤ちゃんを産むまで一度も赤ちゃんという存在を抱きしめた経験がなかったということもあり得ます。

 赤ちゃんを含めた子どもたちの異世代交流は,親としての心構えを教える最も大事な学びの場なのです。早く復活しないと,今育っている女の子たちが母親になったときの悲劇は今以上に拡散することでしょう。自分の娘さんが将来あなたの孫に苦しめられることを考えてあげてください。



【質問7-12:あなたの家庭では,パパの熱情が語られていますか?】

 《「熱情を語る」という意味について,説明が必要ですね!》


 〇どうすればその気になれるのでしょうか?

 その気になればできるのに・・・。そんな励ましというか嘆きというか,声を掛けたり掛けられたりします。ママは子どもに対して何か不満を感じているとき,自分を慰めるように呟くこともあります。その気というのはこちらの思い通りにはならないようです。

 気持ちはもともと前に向かうもののはずです。生きること自体が前向きなものだからです。ただ,その気を問題にする場合は,どちらかと言えば,やらなければならないと言われるものごとへの前向きさです。パパは仕事,役目であり,子どもは勉強でありお手伝いなどです。したくないことにその気になれと願う方が無理でしょう。

 その気と言えば,ちょっぴり色っぽくイメージすると誘惑という手だてが思い浮かびます。その気にさせるということです。営業で言えば,勧誘です。遊びたいときは誘います。誘い水というのもあります。これらはいずれも,他人をその気にさせるケースです。その気にさせられるのは要注意です。

 自らその気になるには,自分を誘惑しなければなりません。スポーツの世界でみられるイメージトレーニングなどはその良い例です。良いイメージを描いて,それに近づこうという気になるのです。子どもは得意です。スーパーヒーローのマネをしているときは,まさにその気になっています。大人はいくらその気になっても無理なことは分かっているので,そんなバカなマネはできません。

 無邪気にその気になれない大人は,どうすればいいのでしょう。現実の苦労の多い暮らしに追い立てられていると,良いイメージを描いている暇がありません。でも,暇は見つける気になれば見つかります。暇を見つけるという,その気になることから始めます。テレビを消してぼんやりする暇ができたら,今の自分に自然に目が向きます。明日の自分は?と考えるとき,例えば「このままではいけない」という何かを求める気になるはずです。そこに入り口があります。

・・・その気とは自分を見つめたときに溢れてくるものです。・・・


 〇チームプレイ?

 子どもたちはバーチャルな遊び,画面上で展開されるシミュレーションゲームに熱中します。パパの世代ものめり込んでいるかもしれませんね。遊びは大人も子どもも夢中になるものです。それはいいのですが,内容について偏食傾向が見られるのが気になります。

 一言でいえば,作られた遊びに偏っていないかという心配です。ひと頃,タマゴッチという変わった趣向のゲームが爆発的に流行りあっけなく消えていきました。ゲームクリアという明確なゴールが見えないという点に,熱情が水を差されたのでしょう。暇つぶしの遊びにはアガリという目標が必須です。点数を競う,時間を争う,そういった単純さが求められます。

 子どもは遊びの天才だと言われていました。今の大方の遊び方には,それが見られません。管理された遊びだからです。車のハンドルに遊びがあることはご存じでしょう。遊びとは余裕であり,管理の脇にある非管理なものです。遊び手が勝手に扱える部分が大事です。勝手にできるとは,工夫することができることです。その工夫にこそ,天才が現れるのです。

 自分なりにカスタマイズできる,好みに変えられることから始まって,改良できる発展性が備わっていれば,面白くなっていきます。そこに目をつけたオモチャやゲームもありますが,やはり限界があります。スポーツなどのチームプレイでは,相手がいてこちらの思い通りには動いてくれませんし,味方がいてカバーしてくれ,選択肢が多様な上に変化もします。自分の思いを出すだけではなく,相手の思いを読み込む楽しさがあります。

 人の振り見て我が振り直せと言われますが,人の思いを読もうとするとき,自分の思いと重ね,同じであったり,違っていたりを経験します。そのプロセスを通して,自分が見えてくるようになります。自分よがりの子どもが多くなってきた背景には,一人遊びへの偏食があります。また,人づきあいが上手でないのは,人は必ずしも自分と同じ思いを持っているわけではないという単純なことを遊びから経験していないからです。

 人は自分とは違うものだ,そのことを納得していないと,自分が人と違うことを恐れるようになります。同じでないといけない,そう思いこんだら辛くなります。みんながしているから,その重い枷がのびのびした育ちを締め付けるようになります。家族でチームプレイに興じてみませんか?

・・・生きた人間を見つめる遊びが,自分を知る上で大切です。・・・


 〇秘めた熱情?

 取り組んでいることに対して,ある程度の目途がつけられる場合に熱情が表に溢れてきます。どうにもならないという場合には,あきらめるか,がんばるか,その狭間で気持ちが揺れ動くので,くすぶる状態になります。

 このくすぶりのままじっと待ち続けると,あるときにパッと火がつくことがあります。秘められた熱情とは,その我慢のことです。結果を急がないことが大事ですが,そのためには途中のプロセスを楽しむゆとりが肝要です。あきらめるのは辛抱できないことですが,それはああでもない,こうでもないという試行錯誤を楽しもうとしないからです。

 考えるのが面倒だという育ちをしたら,おそらく何も手に入らないでしょう。一枚の券に大金がついてくるといった一攫千金を狙うばかりになります。地道に積み上げることがバカらしいという感覚では,熱情の深い喜びは味わえないはずです。一つの夢として限定した上で宝くじに賭けるくらいは,お楽しみでいいでしょう。一か八か,そこには試行錯誤という自らが関与できる余地がないという点で,危ないのです。

 子どもが勉強を面白くないと感じるのは,組み上げる楽しみが見えないからです。もつれた糸を前にして,どこから手をつけていいか分からない,その思いにとらわれていると,解く楽しみに手が届きません。分からなければ手であっちこっちでたらめに引っ張ってみればいいのです。ただし,あくまで試しですからちょっとだけです。余計にもつれそうなら止めて別のところを引っ張ってみます。そうこうするうちに,きっとうまくいきます。

 大事なことは,もつれた糸は必ず解けるということです。学校の勉強も必ず解けます。解けると分かっているから,挑戦しがいがあるのです。もしも,解けるかどうかが分からなければ,無駄かもしれないというブレーキが掛かるようになります。子どもの育ちに設定されている作られた課題は,答えの正誤もさることながら,解くプロセス,やってみてうまくいかなければやり方を工夫するといった試行錯誤が身につくことを目的としています。

 パパが何かうまく事が運ばないとき,今度はこうしてみようとか,そうかあれが間違っていたとか,子どもにどうしたらいいと思うか尋ねてみたりとか,試行錯誤している姿を見せてやれれば,子どもは勉強が好きになるかも・・・?

・・・なんとかなるはずだという信念が,気持ちを燃え上がらせます。・・・


 〇熱情の余韻?

 中高生の姿を見ていると,立ち振る舞いが洗練されていません。何かしらふてくされているといった雰囲気を感じます。持っていた鞄を何の気配りもなく地べたにズダーと放り出し,ズデーと座り込んで,おもむろに小さな手鏡を取りだして髪の乱れを確認している男の子がいます。おしゃれというのは雰囲気であることに気付いていません。自分の顔だけいじっていればいいという風です。

 それが今風であり,おじさんがとやかく言う筋合いはないでしょう。おそらく子どもたちは,見ず知らずのおじさんにどう思われようと知ったことではない,そう思っているはずです。世間の大人は,そんな人目を憚らない雰囲気をまき散らして無頓着なところに,子どもたちの幼稚な社会性を感じて心配しています。ただ,若者が大人になるサナギ時代であるとみてやれば,それほど気にすることはありません。昔から見られた若者の一時期の行動パターンに過ぎないからです。

 気にしたいことは,ふてくされているという印象です。何かに打ち込んでいるから周りが見えなくなっているというのであれば,安心して見守ってやれます。しかし,ふてくされているように見える原因が打ち込むものを持てないでいるせいであるなら,心配なのです。若者の熱情が感じられないからです。何もしたいことがない,ふてくされているしかない,手持ちぶさたの手は自分の髪を触っているしかない,そうであるなら,可哀想なのです。

 上品な例えではありませんが,飼い殺しにされているブロイラー状態です。ただ生かされているという感じです。熱情とは自分から取り組もうという積極性ですから,そこに生きるというイメージが見えてくるものです。生かされていると無意識に感じてしまうと,どうせ俺なんか!という捨て鉢な気持ちになり,とことん世間に甘えてやれ,という態度しか取れなくなります。

 男の子たちをそんな状況に追いやったのは,最も身近にいて熱情のお裾分けをしてこなかったパパなのです。たとえ仕事への熱情に溢れていても,家庭に帰るとのんびりとくつろいでいる,そんな姿しか子どもに見せてやらなかったツケを子どもが引き継いでしまっています。くつろぐとは生かされている状態であることに気が付いていません。家庭に仕事を持ち込むことがタブー視されていますが,熱情の余韻は毎日のおみやげとして持って帰って欲しいのです。

・・・目の前に小さな課題を置く姿勢が,育ちへの歩みを促します。・・・


 〇楽しもう?

 したいことがない,見つけられない,そんなはずはないのです。いろんな体験をしなくなった理由は,育ちの環境が破壊されたことも一つですが,子どもたちが体験を面白がらなくなったことも一因です。自分で体験を拾おうとしていないのです。したことがないことは拒否します。したくないのです。

 面白いこと,格好いいこと,目立つこと,そんな基準で見ているから,たくさんのことを見過ごします。きつそうだ,地味だ,つまらなそうだ,そんな見てくれにこだわることがいいことだと思いこんでいます。勢い,テレビでやっていることに追従します。例えば,大食い競争に夢中になるといった脇道に迷い込みます。

 大人も勘違いしています。子どもたちは本などには興味は向かないだろう,そう思っていたら,読み聞かせをしてやると,引き込まれる子どもの姿にびっくりします。大人も子どもも,早とちりから抜け出す必要があります。はじめから面白いことを求めるのは邪道だと気がついて欲しいのです。

 目立たないことに関わるのを拒否し,結果として閉じこもって,無関心を決め込んでいたら熱情などは持てません。もっと素直に周りにあるものを受け入れたらいいのです。大人の話を聞いたり,大人がやっていることを見たりして,自分もちょっとやってみる,ありのままを自分で味わうのです。やってみたら結構楽しいじゃない,そんな発見をいくつかさせてやれば,子どもはそのほかのことにも関心を持つようになります。やってみなくては面白さは分からないのです。

 楽しいことは自分で見つけなければ長続きしません。もちろん子どもは移り気ですから,飽きることもたくさんあります。しかし,それまではそこそこに楽しさを見つけていたはずです。そんな中から,自分に合った楽しみを見つけたらいいのです。見つけるためには,してみることが絶対に必要だということです。

 年に似合わず若いと感じる人が周りにいらっしゃるでしょう。逆に年の割には老けて見える方もおられます。その違いは,常に何か新しいことに関心を持っているかどうかです。気が若いというのは,関心と表裏一体です。子どもが妙に落ち着いて老成した感じになったら,育ちを停止しているおそれがあります。PTAの役員をして張り切っている人を見て,「あの人好きね!」と揶揄するようになったらかなり老け込んでいるはずです。

・・・楽しいこと,面白いことは自分でやってみて見つけるものです。・・・


 〇中ぱっぱ?

 ご飯の炊き方について,「始めちょろちょろ中ぱっぱ赤子泣くとも蓋取るな」と火加減が教えられてきました。今は炊飯器が勝手に美味しいご飯を炊き出してくれます。暮らしのそこここにはめ込まれていた数々の知恵が,電化製品の中に隠れています。学びの場であった家庭生活がスッカラカンになっています。

 子どもはちょっとやってみてすぐに結果が出ないと放り出してしまいます。根気強く取り組めないのです。それを責めるのは子どもには可哀想です。無理もないからです。最後までやり遂げたという日常的な経験が少ないために,しばらく我慢すればやがて効果が出てくるという全体像が分かっていないからです。

 かつての家庭では,親が帰ってくるまでの間,ご飯を炊いておくのが子どもの役割でした。始めちょろちょろ中ぱっぱ,じっと我慢してやがて一気に燃え上がらせる,その火加減の変遷を付きっきりで見ていました。タイミングを外すと炊き上がりに現れます。そんな経験がベースになって,無意識のうちに他のことに取り組む際にも応用されていきました。

 このように面倒な作業経験は今の家庭では不可能でしょう。細切れのお手伝いしかできません。ご飯を炊くといっても,スイッチポンで済んでしまいます。やりあげる作業はありません。どうすればいいのでしょうか? 土曜の休みにパパやママの家庭での仕事のどれかを丸ごと代わってやらせてみることもできるでしょう。地域で一週間ほどの宿泊通学という生活体験の機会を設定している所もありますが,積極的に挑戦してみてください。

 仕上げないと困るようなことを任せて,ちょっぴり追い詰めて,温かく見守ってやるのです。たとえできが悪くても,それは不問にして,やり遂げたことを認めてやるようにしてください。それは親にしかできないことだからです。子育てにも始めちょろちょろ中ぱっぱという熱情の燃え上がりが必要なのです。

・・・暗いトンネルを抜けないと,輝く喜びには行き着きません。・・・



《パパの熱情を語るとは,大人への憧れの誘いです。》

 ○子どもは宝探しの冒険が好きです。でも,今の子どもにどんな宝が見えているでしょう。何の不自由もない暮らしに宝物は隅っこに押しやられています。「シンデレラになりたい!」,「シンデレラになったらどうするの?」,「好きなことだけをして暮らすの!」,「好きなことってどんなこと?」,「・・・?」。

 好きなことが分かっていない,だからダメだなんて言うつもりはありません。分からなくていいんです。子どもに答えを求める方がおかしいからです。花屋さんになる,運転手さん,保母さん,パイロット,・・・,ママ?,といった無邪気な夢を時期に応じて持っていればいいのです。子どもは世の中のことが分かってはいません。ごく一部の表面しか知りません。

 宝は普通はどこか誰も知らないところに隠されているものです。探そうとしなければ見つかりません。でも,宝の在処を示す古い地図がなければ,探しようもありません。親の生きている姿,それが子どもにとっては宝の地図なのです。親が宝を見つけたときに踏み分けた細い道筋を,子どもにそっと手渡してやってください。こんなに素敵な宝があるはずだと見せつけながら・・・。


 【質問7-12:あなたの家庭では,パパの熱情が語られていますか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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