『パパの背に 負われて帰る 夏祭り』
■はじめに
頭では分かっていても,気持ちや行動は別の道に向かうものです。子どもには優しく接してやった方がいい,それは分かっているのですが,口は厳しい言葉を発しています。端から見ていると,子どもに対して何もそんなにムキにならなくてもと思いますし,当人も後からそう思っているはずです。
それでいいのだとクマさんは思っています。いつもニコニコと優しく接することのできるママは,満点ママです。でも,優しく接した方がいいという程度のものであり,優しく接していないと子どもは必ずダメになるというものでもありません。大事なことは偏らないことなのです。
子育ての情報では,優しく接するように勧められています。それはママが厳しく接する方に偏っているから,優しくする方に少し軌道を修正して欲しいからです。言い過ぎたかなと,ママがブレーキをかけてくれさえすれば,それで十分です。もしママが優しい方に偏っていたら,子育ての情報はもっと厳しく接した方がいいという内容に変わるはずです。
軟らかい食べ物に偏っているから,噛みごたえのあるものを食べさせなさいと言われます。だからといって,硬いものばかり食べさせてはやりすぎですよね。過保護になっているから子どもの自主性を重んじなさいと言われて,放任してしまっては何もなりません。どっちかはっきりできれば話は簡単ですが,どちらでもない,両方が必要だから話は込み入ります。
こんな風に言葉で説明しても,そんなことは先刻ご承知のことですと言われそうです。人間はプログラム通りに動くものではありません。それが苦労の種ですが,知恵を獲得した人間ですから,軌道修正はできるはずです。ムキになって反省し,それを忘れてまた繰り返す,そのうちにそれなりのバランス点に落ち着いていくでしょう。子育て情報に対して満点ママではない方がいいということだけは,知っておいてください。
【質問7-11:あなたの家庭では,パパの背中に学んでいますか?】
《「背中に学ぶ」という意味について,説明が必要ですね!》
〇どうすればその気になれるのでしょうか?
好きなことがしたいと言いながら,自分の好きなことが見つかっていません。世間があれがいいと言えばちょっとはかじってみますが,大して面白みもありません。すぐに飽きてしまいます。何をやっても中途半端,それが癖になって,どうせすぐにやめてしまう自分を見限っていきます。
好きな人がいても,どうすれば実らせることができるのか考えることなく,傍をうろつき回るから,気味悪がられて,逆効果です。一緒にいて楽しい人が好きなんて,漏れ聞くものだから,妙にふざけて回って,バカみたいと歯牙にもかけられません。
好きなものが食べたいと言いながら,自分では料理もできないので,どこかでおごってもらうことだけを考えます。おじさまの懐を当てにすることでとりあえずはしのごうという浅知恵を出します。そんなつもりではなかったという言い訳は懐にしまい込んでいるようですが・・・。
お手軽にいいものを手に入れたいと願っても,そうは問屋が卸しません。苦労して手に入れたものが,いいものになるからです。金さえ出せば手に入るものは,それだけのことです。いくらしたか,ということで価値づけられるに過ぎず,いいものとはならないからです。
順序が違っています。人は好きなことだから始めるのではありません。何もなしにひょんなことから始めてみて,しばらくつきあってみて,少しできるようになって,壁に突き当たって,それを越えられたときに,やっと好きになるのです。そこから先が,好きなことをするという段階になります。前段階を通り越さなければ,好きな段階には至らないのです。最初から好きになれるという幻想を抱いている限り,いい結果は得られません。
・・・その気とはじっとこらえた後に湧いてくるものです。・・・
〇背中にオンブ?
前にダッコされるのは抱いてくれる人にすっかり身を任せる行為です。幼い子どもはじっとダッコされているでしょうが,少し大きくなると嫌がります。でもオンブはかなり大きくなるまで,せがみます。背中に負ぶさるのは,結構不安定であり,オンブされる方からもしがみつくことが必要になります。その自分からしがみつけることが,子どもにはうれしいのです。
パパの肩車も子どもには楽しいものです。高いところから見下ろす視野は,新鮮な感動を呼び込んでくれるからです。オンブされて肩越しに見る景色は,パパが見ているのと同じ風景です。パパの目線が高いことを実感し,パパの大きさを心に刻んでいきます。
すがっているパパの背中が自分のサイズから見れば大きいと思い,頼りがいのあることの秘密を覗いた気になります。大きくなることは頼られる存在になることなのだと学びます。パパがゆっくりしようとすると,めざとく見つけて,背中にまつわりついてきます。ただオンブされてどこがおもしろいのかと思いますが,子どもはそこに自分の未来を直感しているのです。
子どもの遊びは,決して無駄な物はありません。そこからきちんと育ちに必要な養分を吸い上げています。面白がることは十分に与えてやった方がいいでしょう。大人は意味があるかどうかを知りたがり,意味が見えないと切り捨てようとします。子どものしたがることは,幼い間は本能的ですから,意味の裏付けは必要ありません。育ちに必要だからしたがると思っていればいいのです。
パパと同じ風景をメモリーすることで,大人になることの感じをつかみます。育ったらこうなるという数枚の絵を手に入れておくと,育ちへの道が楽しみになります。知らない土地に出かける前に,目的地の写真を数枚眺めておくと,楽しみが倍加しますし,なにより不安がなくなります。大人になったらというカタログを映像で見ていることになるのです。
・・・子どもにとって,パパの背中は未来へのタイムマシンです。・・・
〇背中をにらむ?
友だちのような親子関係がいいと思われている風です。押さえつけるのはよくないという発想からでしょう。特に,パパは平日がご無沙汰をしていますので,その埋め合わせの積もりでしょう。それはいいのですが,ご機嫌取りになるとちょっと困ります。子どもに合わせてしまうところが気になるのです。子どもからすれば,何でも分かり合えると感じる仲になります。分かり合えないよりはいいのですが,程度があります。
子どもと一緒になってはしゃいで,ママに叱られているパパ,ほほえましい風景です。それがすべてであれは,子どもの育ちにはよくありません。随所に大人である姿を織り込むようにします。子どもじゃないという部分をきちんと見せつけるのです。子どもはパパのマネをしたがります。子どもに無理なことであれば,してはいけないとはっきり注意します。けじめをつけるのです。
パパはしているが,自分にはしてはいけないこと,してもできないことがある,その違いを与えてやります。子どもが親とは違う自分に直面しないと,自分を見つけられなくなるからです。酒やタバコからの回避,高いところ,深いところ,電気周りなど,子どもの危険を防ぐという意味合いもありますが,そのほかに,自分を知ることが育ちには必要だからです。
人の感覚は本質的に違いに対してのみ反応します。気付くのは違いに直面したとき,思った通りにものごとが運ばないときです。例えば,気候では暑いとか寒いなどと言います。ちょうどよい時を表す言葉はありません。背が高いとか低いとか,大きいとか小さいとか,重いとか軽いとか,優しいとか厳しいとか,良いとか悪いとか,自分が持っている当たり前の状態から外れたときに,人はオヤッと気付きます。それが育ちの学びの入り口になります。
子どもに違いを感じさせることで,子どもという自覚,気づきを与えてやるのが親の務めです。大人が暮らし易いようにできている家庭や社会ですから,子どもには不自由です。それが理不尽であると思うはずです。思い通りにできない不満を解消するには,誰かを恨むことが手軽なやり方です。パパのせいだと,パパは恨まれる羽目になるかもしれません。パパの背中をにらみつけることでしょう。パパは毅然としていればいいのです。にらんだ後は,我に返って考えるはずです。それが子どもを大きくします。
・・・子どもの幼い価値観を壊してやらねば,大きく再構築できません。・・・
〇背中の曇り?
「パパ,お仕事がんばってね」。パパの背中はその声に毎日押されてお仕事に向かいます。家から数十メートル離れた辺りで背中の温もりは忘れられて,いつもの通勤に紛れてしまうかもしれません。そのつかの間の温もりを愛おしんで,ポケットに写真を忍ばせているパパもいるでしょう。
「パパはお仕事がんばっているから,ママもがんばらなくっちゃ。○○ちゃんもがんばってね」。そんな朝を毎日迎えられたらいいですね。幼い子どもはパパとママががんばっていると思っています。それでいいのです。
ところで,大人ががんばっていると思うのは,10歳前後までの子どもです。それ以降は,「大人はずるい,自分勝手,いい加減」と思うようになっていきます。中学生になるにつれて,どんどんと割合が増えていきます。パパとママの背中に見ていたがんばりが必ずしも普遍的な大人の実像ではなかったことに気付いてしまいます。
パパとママは違う,子どもはそう思いたいことでしょう。大好きなパパやママが自分勝手であるはずがないし,もしそうだったとしたら悲しくなりますからね。その願いをパパとママはしっかりと心に留めておいてください。願いは不安とセットです。もしかしたらパパとママは普通の大人と同じではないのか,そんな不安な気持ちで親の背中を見ていると,幼い頃に抱いていたパパの背中の輝きが曇りがちになってきます。いつまでも格好良くあって欲しい,パパとママの子はそう祈っています。
10歳ごろからの子どもに対して,パパは何を気配りしておけばいいのでしょうか? 理想を求めるのが青年の目なので,大人はそれほど心配しなくてもいいでしょう。育ちのワンステップということです。しかし,だからといって何もしないでいいということではありません。やるべきことはちゃんとあります。それは大人の真面目な世界をちゃんと見せてやることです
かつての青年は,大人の矛盾に対して憤りを感じ,反発し,世直しなどという大それた気概を持っていました。いまどきの青年は「大人もしている」という先例に倣うことを学んでいるようです? 若者らしい覇気が失われてきたのは,一つには青年期の子育てが手抜きをされたためなのです。大人の代表としてのパパが青年期を迎えた子どもの前に堂々とした姿を見せてこなかったという意味で,子育ての放任をしてきたのです。
・・・明日の自分であるパパに,子どもは大きな期待を寄せています。・・・
〇背中に見える?
話は全く方向違いですが,子どもたちの理数科離れが深刻になっています。理数科といえば,頭が痛くなるママも多いことと推察します。理数系の学部に入学してくる女性が少ないからです。古い見方ですが,女性は直感に優れているので,論理的な学科目に興味が湧かないということなのかもしれません。この推察は一面的であるという反論もできます。女性は数字に細かいという一面が,家計を預かる主婦には共通しているからです。どっちですか?
一事が万事,という言葉があります。数字でいえば,0か1かという単純なディジタル思考です。単純というのはコンピュータでも理解するという意味です。識者?のコメントには,「だから日本人は・・・」という言い方が多用されています。それを聞くと,あなたは1億2千万人のうち,何人の日本人をご存じなのかと思ってしまいます。それは冗談にしても,通常は一個人が知りうる人は数百人でしかないでしょう。半端な量的感覚が気になります。
世情について見聞する豊富な手段が身近にあることから,見えている世界が広大になりました。伝え聞くのと違ってリアルに届けられるために,そこここで起こる不始末を自分の世界のことと身近に感じてしまいます。日本中で見れば毎日のように大人の不行状が起こっている,だから,大人はすべてそうなのだと思うようになります。識者が「日本人は・・」と言っているのと同じに,子どもたちも「大人は汚い・・」と大鉈を振り下ろします。そんな大人観のままでは困るのです。
報道される世界は特殊であることを意識しておくことが,情報を受け取る側の心構えです。全く無縁というわけではありませんが,基本的に暮らしの場とはかけ離れたものです。自分にとって大事な情報を選び取る能力を身につけねばなりません。ところで,宝くじに当たることを期待していながら,車に衝突されることは願い下げですね。でも確率から言えば,宝くじに当たる前に車に衝突される方が起こりやすいのです。暮らしの場で何に気をつければいいのかは明らかですね。
子どもに正しい大人観を伝えるのはパパの役割です。全体から部分をおしなべて推し量るのではなくて,部分をしっかりと積み上げていくのが堅実な暮らしの考え方です。パパは社会に生きていますが,ごく一部の社会です。実感的な手の届く世界です。そこで大事なことは,パパの仲間を大事にするということです。家庭でパパとママが仲違いをすると,子どもの家庭観が壊れていくのと同じように,パパの仕事に関する愚痴ばかり聞かされていると,子どもは大人社会に幻滅します。
パパの生きている職場という社会はいいものだ,報道されているような不始末とは無縁であり,張り合いのある仕事ができるというメッセージを,子どもにしっかりと伝えることです。世の中は捨てたものじゃない,それが子どもの未来を明るくします。パパの背中から本物の社会がのぞいて見えるようにしてください。
・・・パパの周りの人,そこから真っ当な大人のイメージが広がります。・・・
〇背中に感じる?
「時代遅れの男になりたい」。そんな歌詞を歌っていた男性歌手が病に倒れて若くして去っていきました。日々の暮らしの中で無理している自分を,その歌に慰められていたファンも多かったことでしょう。哀愁という言葉は,やはりパパに似合う言葉のようです。
嫌なこと,辛いことをぐっと飲み込める懐の深さを家族に期待され,それに健気に応えようとする辛さがあります。何で俺だけが,そんな弱音に負けてしまうこともあります。強がってはみたものの,後悔のほぞをかむこともあります。何もかも嫌になって,何もかも捨ててしまったらすっきりするだろうなという誘惑もあります。小利口で要領のいい奴がのさばって,バカ正直者が割を食う世間です。正直や正義や友情が生きているのは,マンガの世界だけのような気になります。
厭世的になればなるほど,世の中がそう思えてくるものです。この連鎖を断ち切るためには,素直に自分の目で周りを見回すことです。そこには地味に生きながら,日々をそれなりに楽しもうとする平凡な小市民があふれています。人は違いを感じるものだと書いておきましたが,平凡だからこそ,小さな面白みで十分楽しめます。普段が無味であるから,薄味で事足ります。健康な生活とはそういうものです。
世の中,面白可笑しく暮らそうとしても,違っていないと感じない感覚は,より過激な刺激を求め続けて決して満足することはできません。それが悦楽に歯止めが効かなくなる理由なのです。苦労についても同じです。自分の暮らしは苦労ばっかり,そんな目で見ているから,苦労しか見えなくなります。かつてはその目をくらますために,ハレの行事,お祭りなどが地域の暮らしに組み込まれていました。現在のように,有料化されたイベントには興奮はあっても癒しはありません。それが辛いところです。
「曲がりなりにもここまでやってきた」という反省の弁があるように,生きることは曲がるものです。明けない夜は無いという言葉も,揺れる気持ちへの応援歌です。今日のパパの背中は張り切っている,今日のパパの背中は力がない,今日のパパの背中は? 家族はあなたを気遣っています。
・・・パパの振り見て,子どもは人生を学んでいきます。・・・
《パパの背中に学ぶとは,大人への憧れです。》
○子どもの頃は大人ってすごいなと見上げているものですが,自分がその年齢になると,子どもの頃思っていた大人にはほど遠いことにがっくりします。いつまでも子どものままであるという実感があります。こんなはずでは無かったと思いながら,仕方ないかなと思い直したりします。
ところで,大人ってどんな人を言うのでしょうか? 誰かと話していると,「自分より大人だな〜」と感じることがあります。逆もあります。一つは物事を考える際の視野の広さです。すそ野の広さと言ってもいいでしょう。オンブされたパパの背中が広いと感じたのは,正しかったのです。
【質問7-11:あなたの家庭では,パパの背中に学んでいますか?】
●答は?・・・もちろん,「
イエス」ですよね!?