*** 子育ち12章 ***
 

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「第 8-12 章」


『ぼんやりと 遠くを見ない 忙しさ』


 ■はじめに

 学校保健統計調査報告によると,裸眼視力1.0未満の者が,幼稚園・小学校では20%台,中学校では40%台,高等学校では60%台になっています。同時に,この割合は毎年増加を続けており,中学校の場合には昭和48年と比較して2倍になっています。

 視力はそれなりの原因がない限り,生活習慣を反映しています。使わない筋肉は衰えるという経験知を持ち出すまでもなく,視力の衰えは普段近くのものしか見ない生活をしているということを示しています。室内でブラウン管を眺める姿が思い描かれます。「ゲームばっかりしているからよ」という小言が子どもに向けられることでしょう。

 親が請け負っている指導とは,いけないことを指摘するばかりではありません。それ以上に留意すべきことは,「どうすればいいか」という指針を与えることです。してはいけないと禁止するよりも,こうした方がいいと導くことが大事です。指して導くことが指導です。

 親が請け負っている保護とは,テレビやゲーム機しかない環境の中でやたらに注意することではありません。他のことができる環境を整えてやることが役割なのです。できるだけ育ちに相応しい環境を保つことが大切です。偏食が体に良くないのと同じように,環境のバランスが壊れていたら,子どもは自然と曲がっていきます。

 遠くを見なければならないような生活パターンを,できるだけ家庭が作り上げるようにしてください。閉じこもっていてはできませんね。それから部屋の照明,机のスタンドなどの蛍光灯はこまめに交換してください。もちろん,読む姿勢も大事ですよ。また,夜寝るときには目に光が当たらないように,暗くしてください。光が当たると目は残業をすることになります。



【質問8-12:あなたのお子さんは,遠くを見ていますか?】

 《「遠くを見る」という内容について,説明が必要ですね!》


 〇遠くを見るのは誰でしょう?

 助手席に座っている○○に道路マップを持たせて,はじめての場所に出かけた人がいます。もうすぐ行き会う交差点で曲がるのを確認するために,「あと距離はどれくらい?」と尋ねると,「3cm」と答えられてまいったという話があります。地図を読めない○○というタイトルの本もありました。

 電話で道案内ができないという方もいらっしゃいます。空間認識が苦手のようです。子どもたちは立体をイメージする力が弱くなっているという調査結果があります。地図も立体図形も空間認識という点で同じです。視点をぐーんと離す必要があります。地図は鳥の目,立体は斜めに離れた視線で見ています。目で見るということは目に映る像を頭の中で再編成しているのですが,これまでの言い方ではもう一人の自分が見ているということです。

 地図を読む場合には,地図の上にいる自分をもう一人の自分がはるかに離れたところから眺めています。自由に浮遊できるのはもう一人の自分です。今パソコンの画面を読んでいるあなたがいます。そのあなたの姿を10メートル上から見たとしたらどのように見えるかイメージしてみてください。明瞭ではないにしても何となく想像できますね。横からとか,前からとか,視線を変えることもできるでしょう。それがもう一人の自分の視線です。

 遠くを見るというのは,自分が固定して遠くのものを見るだけではなくて,近くのものをもう一人の自分が遠くに離れていって見るということでもあるのです。それができるときに,地図が読めるようになります。地図とは自分をもう一人の自分が広い視野の中で見るための道具だからです。

 この視点の移動は,遠くからものを見るとどう見えるかという体験をしていないとできません。高い所から見ると一つの町がどう見えるか,山の上から眺めた経験があるから,居ながらにして視点を遠ざけたイメージを想像できるのです。もちろん,絵に描くこともできるはずです。地図も・・・。

 もう一人の自分に備わるこの力は,地図を読むときに必要なばかりではなくて,小説のような長い文章を読む場合にも関係しています。簡単に言ってしまえば,小説に書かれる世界は広く,おまけに時間もかなりの幅になるので,その全体を見渡せる能力が求められるからです。

・・・遠くを見るのは,もう一人の子どもの移動能力を育てます。・・・


 〇どこで遠くを見るのでしょう?

 井の中の蛙状態にある暮らしから街に飛び出すと,たくさんの人の波にこづき回されます。そこには隣県の人もいます。数時間の交通圏内に住んでいる人がごく普通に寄り添っています。場所の遠さという感覚は,普段の生活圏の違いによって大きく異なります。車で毎日飛び回っている人には,数10キロなどは近いものでしょう。近所のスーパーに買い物に出かけるだけの暮らしでは,10キロは遠い距離です。

 日常と非日常,そこに遠近感が横たわっています。遠足は普段行かないところに出かける非日常の行事です。子どもが得意な「どこかに連れてって」は,日常から離れた遠くに行きたいのです。日常の生活圏の先は未知の世界です。そこが遠いところになります。

 遊んでいる子どもは,知らない間にずいぶん遠くまで出かけてしまうことがあります。子どもの足でそんなところまで行ったのかとびっくりします。人の足は遅いのですが,その力はすごいものです。1時間歩けばはるか彼方まで行けます。普段自分の足で走破できる距離を知れば,それが遠近感の基本尺度になります。同時に自分の力を知ることができます。

 自分の生活圏の外に遠い世界がつながっています。この外を見ようとする姿勢が好奇心であり,意欲になります。遠くを見ようとしなくなったら,日常がつまらなくなります。毎日何をしているんだろうという閉塞感は辛いものです。そんなときは背筋を伸ばして,前を見て,日常の頭越しに遠くを眺めてみます。自分にとっては未踏の世界が目に飛び込んでくるはずです。

 自分の足で歩いた感覚を思い出すと,一歩一歩踏み出していけば遠くに見えるところにもやがて到達するはずと確信できます。日常と非日常の間には溝があるのではなくて,足で踏み越していけるのです。子どもは自分の狭い日常世界を日々少しずつ踏み出すことで,世界を広げていきます。それが育ちの歩みというものです。

・・・遠くを見るとは,日常からほんの隣に目を向けることです。・・・


 〇どんなときに遠くを見るのでしょう?

 親は子どもの行く末が楽しみなものです。でも,それは子どもが幼い間だけです。「大きくなったら何になりたい?」,「大きくなったらクマさんになりたい」,「?」,「それでね,小さくなったらアリさんになりたいの」。こんなかわいい頃はいつまでも続きません。

 「大きくなったらサラリーマンになりたい」。いまどきの子どもは夢がない?。違います。サラリ−マンはウルトラマンのようなもの! 単なるマン違いです。子どもにとっては自分の未来である大人社会は知らない世界です。何になりたいと聞く方が無理です。児童生徒の頃にはまだそれでも許せます。

 これがそのまま高校生になってきたら困りものですが,現実は似たような状態です。大きくなりたい,大人になりたいと思っていないので,全く見通しを持っていません。その一つの要因として,親が何のレールもあてがってこなかったという手抜かりがあります。勉強して入学するというレールは示しているのですが,そのレールが向かっている先はとにかくいいところだという曖昧なものです。

 若者が見通しを持っていないと言いましたが,若者らしい見通しを持っているものもいます。でも,それが親の願いと違っているとき,認めてもらえません。ふわついていると見なされます。真っ当な夢を持てと指導されたり?

 子どもと散歩することがあるでしょう。脇道に逸れそうになると,「そっちはダメ,こっちでしょ」と引き戻しますね。そんなとき,「いつもはこっちだけど,そっちに行ったらどこに行くのかな」と寄り道してみませんか?

 そのとき,その道の先遠くを見るでしょう。それほど大きく逸れてはいかないという見通しが立てば十分です。結果は行ってみなければ分かりません。歩いていきながら,見通しを修正していきます。途中で珍しいものに出会うでしょう。元の道に戻ってくることもあります。一本道ばかりではありません。お互いに通じ合っているものです。また,別の道の方が好きな道になることもあります。

 人生の道も同じです。取りあえずあそこに行こうと見通しを立てて歩いているうちに,脇道に出会いあらためて遠くを眺めたら,もっと気に入る新しいあそこが見えてくるものです。近くの山に向かって登っていったら,だんだんと眺望がひらけてきて,本当に捜していた高い山が見えてきます。その繰り返しができたら,着実に登っていけます。

 若者が言う自分に合った職場,それを探す方法は近くの職場に入って,そこで3年辛抱して自分を高みに持ち上げる,そうすれば捜し物を見極める力が付き,同時により展望が開けているはずです。平地にいたままで山を探しても見つかることはないでしょう。辛抱してみろというアドバイスの意味です。

・・・遠くを見るのは,進路の途中で出会う分岐点に立ったときです。・・・


 〇遠くを見ると何が得られるのでしょう?

 山のあなたの空遠く幸住むと人の言う・・・。チルチルとミチルの青い鳥探しも森という遠い世界への憧れです。水平線の向こうに神の国があるという古人の信仰も非日常世界とのつながりです。遠くを憧れることによって日常の価値を再確認するというのが結論でしたね。外国に出て日本を見直すという話は捨てるほどあります。もちろん,その逆もありますが,それは日常の改革に向かいます。

 人の振り見て我が振り直すという諺は,自分の目を他者に移すことで,自分の身ずまいを正す方便です。遠くの他者を見るという行為は,自分に跳ね返ってきます。もう少し範囲を広げて,周囲との関係を考えてみましょう。

 心が狭いとか広いという言い方をする場合があります。あるいは了見が狭いとか度量が広いとも言います。顔が広いというのもあります。いずれも遠くまで見る視野を持っているかいないかです。広く遠く見ればどうなるのでしょう。大同小異という判断が可能になります。気持ちに余裕が生まれます。

 広く見渡せばいろんな人が見えます。親として悩んでいるときには,同じ悩みを抱えた人は珍しくはないことに安心します。太めの人はあの人に比べればまだ私の方がなんて? 上見ても下見てもきりがありません。我が子だけではなくたくさんの子どもを見ると子どもが見えるようになります。たまにはとっても素敵な人を見つけてときめいたり?

 女房妬くほど亭主もてもせず。だいたいこんなものだろうという,安心や落ち着きに到達するものです。つきあう範囲が狭いとなかなかその悟りに至りません。隣の芝生ばかり見ているから,妬みが生まれます。隣の子どもばかり見ているから,うらやましくなります。遠くを見るとは,違った人をたくさん見ることです。そうすれば,こうでなければならないという狭い了見は自然解消します。いろいろあっていいんだ,という度量の広さが出てきます。

 子どもたちの世界がクラス世界という近場になっているせいで,いじめが湧いて出てきます。異世代交流という遠い世界を視野に入れたら,ケチないじめはやってられなくなります。会社のいじめも似たようなものです。会社しか住む世界がない狭い日常では淀むのが当たり前です。遠くをいつも視野に入れておけば,追い詰められることはありません。

・・・遠くを見ると,心の前庭が広くなります。・・・


 〇なぜ遠くを見るのでしょう?

 「こんなことでは将来が思いやられる!」。親は必ずそんな思いを抱きます。もちろん社会的に困るようなポイントについては,初期消火が肝心です。ここでは,親が願う「こんな子どもに育って欲しい」という願いから出てくる心配について考えます。

 子どもを育てる場合,二つのパターンがあります。一つは負けないように育てる型,もう一つは勝つように育てる型です。例えば,塾に通わせるとき,勉強についていけるようにと考えるか,それとも勉強ができるようにと考えるかです。弱点を無くそうとするか,強点を増やそうとするかという選択です。個性を求めるなら後者ですし,現在の社会は「何ができるか」という能力主義になっているので,得意なものを伸ばすという育て方が多いでしょう。

 学校制度の最終点は大学院の博士課程です。勉強を極めることになりますが,そこでは大きな悩みがあります。それは就職先が少ないということです。極めたということは特殊な能力ということになり,選択の幅が狭くなるのです。音楽を極めても就職先が無いという事情と同じです。得意なものを伸ばすのはいいのですが,伸びすぎたら応用が利かないのです。社会には専門家はたくさんは要らないのです。就職難の時代になると専門家は行き場所が極端に狭くなります。

 子どもを育てる場合,これから先どこに進むのか未定です。個性的になればなるほど,選択の幅を狭くしていくということを知っておいてください。そこで,子どものうちは,将来どの方面に進んでもいいように,基礎的な能力をまんべんなく身につけて置いた方がいいでしょう。もちろん,成長するにつれて少しずつ進む領域が絞られてくるはずです。体育会系か文化系か理科系か,といった分かれ方ですが,それもあまり厳密には考えない方が無難です。先のことはどうなるか分からないし,また文化系か理科系かという分け方が意味を失ってきているのですから。

 そこで,遠くを見るということが必要になります。事務的な仕事はコンピュータがするようになります。単純作業の機械化は既に進行しています。いわゆる人手が必要とされるのは,対人領域になります。三次産業と呼ばれる領域の割合が増えてくるでしょう。そうなると,人間関係の誠実さが基本的な能力になってくるはずです。

 子どもを育てるとき,親は今の社会に相応しい子どもを育てようとしていたら,時代遅れになります。これから先の社会に生きていけるように子どもを育ててやらなければなりません。「将来が思いやられる」,そのときの将来を読み違えないように,遠い先の時代を見極める努力を怠らないでください。

 子どもは自分たちの育っていく先にどんな時代があるか,それを夢に見る権利があります。「そんな時代がきたらいいね」,それが親の励ましというものであり,そのために親は今何を準備しておいてやれるか,を考えてください。子どもの時の夢を実現させる,それが人にとって幸せな生き方だからです。

・・・遠くを見るとは,生きる目標を見定めるためです。・・・


 〇どのように遠くを見ればいいのでしょう?

 かわいい子には旅をさせよ。よその家の釜で育てる機会が無くなってしまいました。外食産業の流布が独身者の食生活を支えています。かつては高校や大学に通うために,下宿をしていました。家庭の一部屋に住んで食事を共にする生活です。家庭料理を頂くわけです。好き嫌いも礼儀として持ち出せず,いつしか何でも食べるようになりますし,否応なしに客分として一歩引いたつきあい方もしつけられていました。

 社会システムとして,他者による子育てが機能していました。今は,そのしつけの仕上げを受けるチャンスを失っています。大学生も自分勝手な暮らしを望み独身アパートに住みます。必然的に親自らが手元にいる間に他者の立場で子どものしつけを完成させなければならないのですが,現状の通りに無理なことです。社会が子どもを育てる機能を失っているというシステムの欠陥を見過ごしてきたために,子どもは社会的に未熟なまま放り出されています。

 保護者の責任は知らなかったでは通りません。社会では無為に放置したことを追求する気運になっています。被害者は大事な子どもたちです。学校がしつけをしてくれる,会社がたたき直してくれる,そんな時代はとっくに無くなっています。自己責任の時代が始まっているのです。

 親は家庭だけを見ていればいいのではなく,家庭の垣根の先遠くにある社会がどういう状況になっているか,それを見ておくことが大切です。子どもは家庭だけで育っているわけではないからです。親はどうしたらいいのでしょう? 親自身が家庭の外に関わっていき,お互いの子どもを育て合うという体勢につくことです。流行の言葉で言えば,地域による子育てです。我が子のためであることに気付くチャンスを逃さないようにしてください。

 子どもを見下す視線だけであれば,子どもを見る眼力は1.0以下になります。子どもの向こうを見上げる視線を取るとき,眼力を1,0以上に保つことができます。顔を上げるだけで遠くが見えます。顔を上げていれば,自然に近所の方と目が合います。そこで目を伏せたら,視界から遠くが失われることになります。

 親の目線が変われば,子どもは日常的に近所の人と話をするような環境に育つことができます。子どもはよその人のテリトリーと接触したり入り込んだりすることで,自分の思い通りになる世界のすぐ外にちょっと違った世界があることに馴染みます。その慣れが遠くを無関係な世界と切り捨てる短慮を消してくれます。その育ちが社会という子どもにとって遠い世界への入り口になります。

・・・遠くを見るとは,顔を真っ直ぐにあげるだけでいいのです。・・・



《遠くを見るとは,真っ直ぐに育つ確信を得るための心得です。》

 ○遠くて近きは男女の仲と言いますね。パロディ化すれば,近くて遠きは夫婦の仲? それとも親子の仲? 遠い近いは距離だけではないようです。子どもの行動の後ろにある意味を見極めることも,遠くを見通すことの一つです。

 子どもが何かに悩むとき,「お母さん」と呟いていることを思ってください。子どもは,その言葉の向こうにいる遠い母の温もりを支えにしています。離れていても温もりを伝えられる,そんなママになってください。そのためには,遠くにいる子どもを思い描いてみることです。そのときに感じる気持ちを大切に覚えておいてください。


 【質問8-12:あなたのお子さんは,遠くを見ていますか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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