『パパと子が 10まで数え 風呂揚がる』
■はじめに
「子育て羅針盤」100号記念の三部作,「無関心(99),無気力(100),無責任(101)」の最後です。今回は責任感について考えます。無責任というテーマは子どもにはちょっぴり背伸びした感じがありますね。子どものしたことは親が責任を負うのですから,子どもには責任能力が期待されていません。
最近,窃盗をはじめとして,凶悪犯,麻薬がらみの検挙者が,著しく低年齢化しているという事例が耳に入ってきます。小学生の麻薬の売人まで現れています。17歳が15歳,13歳と,七五三の揃い踏みになりつつあります。保護監督責任は厳しい状況に入っています。罰則規定も低年齢化していることは耳にされたことでしょう。
子どもたちに責任という資質を伝授してこなかったことが悔やまれます。子どもに責任を取らせるという意味ではなくて,責任を持つということはどういうことかをしつけておく必要があります。簡単にいえば,していいことといけないことの明確な区別能力です。「ちょっとぐらいならいいだろう」という曖昧さが無責任への入り口です。「こんな大騒ぎになるとは思わなかった」,それを知ったときはもう遅いのです。
子どもに責任ある行動をしつけるために,ここでは始末をつけるというポイントから考えてみることにします。もちろん,他の要素も考える必要がありますが,それについてはおいおい触れていくことにします。他者に対する結果責任は親が負うこととして,子ども自身が自己責任を持つという部分をまず育てておく必要があるからです。自分を甘やかすこと,そこを正しておきたいのです。
駐輪場から他人の自転車を掻っ払う,ちょっとぐらいいいじゃないか。道路脇の花壇から花をむしり取る,一輪ぐらいいいじゃない。図書館の週刊誌からグラビヤ写真を破り盗る,これくらい大したことじゃない。何が欠落しているのでしょうか? 倫理観って何ですか? モラルとは? そんな小難しい言葉を理解するといったことではなくて,自らの行動を真っ当に導くことができる当たり前の感性を身につけさせたいのです。
家庭生活を送る中で,ものごとをきちんと始末をつけていく。その癖がついていれば,いざというときに役に立ちます。日頃をいい加減にしていたら,何も得るものはありません。小さな積み重ねが育ちという年輪になるのですから。
【質問8-11:あなたのお子さんは,一つ一つ始末をつけていますか?】
《「始末をつける」という内容について,説明が必要ですね!》
〇始末をつけるのは誰でしょう?
世間には「してはいけないこと」がいくつかあります。モーゼの十戒の前半は宗教的戒律ですが,後半の殺人,姦淫,盗奪,偽証,貪欲の禁止は,一般的社会生活上で今も生きています。法という人間同士の申し合わせである以前に,神という絶対的存在に対する誓約であったのです。神を失った時代には,その約束も反古状態です。それでもなお,人としてと考えるとき,これらの基本的な戒律を外すことはできません。
子どもの権利を守ろうという運動があります。それと平行して,子どもにも義務が課せられなければなりません。「弱いものに向かって手を挙げてはいけない,人の嫌がることをしてはいけない,人のモノを盗ってはいけない,嘘をついてはいけない,わがままをいってはいけない」のです。
子どもが一人の人間であるとするなら,人として守るべきことを守れるようになったときに,人として認められるはずです。自分は子どもだからという言い訳を持ち出すとき,同時に権利も失います。確かに厳しいと感じられる論理ですが,自覚する側は厳しく考えておくべきです。自分に厳しくということです。
自覚するのは誰か? もちろん,もう一人の自分です。人に言われて戒律を守らされるのではなくて,もう一人の自分が自らに戒律を課すことが自律するということです。してはいけないことに対して,説明をして納得させようとする必要はありません。問答無用なのです。最も基本的なことには理由はつけられないものです。そういう約束をする,そこから始まっているのです。1+1=2。どうしてそうなるかという理由などなくて,公理としてそう決めたのです。もしそれが納得できなければ,社会から離脱するほかに道はないのです。
生きる上でこれを信じて守る,それが自分のプライドである,そうなったとき人は確信的に生きていくことができます。それがパパの子だ,そういうバックボーンがあれば,もう一人の子どもは強く生きることができます。自分の行動に対して,これだけは絶対にしていない,そういう始末が可能になるからです。
守るべきことを具体的にきちんと自覚していないと,ついついというほころびを知らず知らずのうちに広げてしまいます。そんな積もりではなかったという後悔が早い段階で訪れて来ればいいのですが,そうでなければ戻り道が辛くなります。厳しくしつけをしなければならないことは,この始末なのです。
・・・始末をつけるのは,自分に厳しいもう一人の子どもです。・・・
〇どこで始末をつけるのでしょう?
自分をきちんと始末するという点で,最も基礎になるのは,身だしなみです。だらしない,みっともないような立ち居振る舞いは避けた方がいいはずですね。何も飾り立てるのではなくて,メリハリを保つのです。最低限のマナーは身の始末として必要です。
例えば,箸の持ち方,使い方です。成人してデイトの時,箸の持ち方が無様なために,悪い印象を与えてしまうことがあります。外国に行ったとき,巧みなハシさばきで,日本文化の好印象を与えることができます。着飾ったとしても,振る舞いががさつであれば,台無しです。振る舞いのおしゃれ,それは子ども時代の遺産になります。
細かい例を持ち出して恐縮ですが,身だしなみは子ども時代しかしつけられなくなっています。昔は,かなりの年齢まで,青年時代にでも世間の人が矯正してくれました。大人になるための,しつけの最終の始末をしてくれていたのです。
しかしながら,今は,幼い子どもに対してさえ,世間の人は注意してくれません。親がし残したしつけは,そのまま放置されてしまいます。おまけに,中学の頃から,親は身だしなみのしつけから撤退していきます。小学生時代までに親がきちんとしつけ終えておかなければ,二度と機会はないということを覚えておいてください。
今の生活は,かつての上流社会のレベル以上です。それなのにマナーは置いてけぼりです。なにもお上品であれということではなくて,気持ちをちょっとは引き締めることも必要ではということです。「5,4,3,2,頂きます」,「1,2,3,4,ごちそうさま」。残さず食べる。そのためには,食べられる分量を出すようにママが気配りしてくださいね。
夕ご飯の団らん,くつろいで過ごす至福の時ですね。でも,至福とは,だらしなくていいというものではありません。刺し箸,移り箸,探り箸,渡し箸,ねぶり箸,涙箸(汁を垂らす)など,さらに茶碗をかかえること,また,犬食いをしないこと,といった普段の食卓での小さなしつけが大切です。普段から慣れておくことです。よそにいって緊張するのは,あらためて作法を守らなければと構えるからです。しつけをしていないと,損をするのは子どもです。
・・・始末をつけるとは,家庭の暮らしの中にあります。・・・
〇どんなときに始末をつけるのでしょう?
何かをしようというとき,最も気持ちエネルギーを消費するのは,最初の立ち上がりです。「さあ,始めよう」という一言がなかなか出てこないものです。後で,明日から,来週になれば,来月から,来年から,・・・と先延ばしをして怠けようとします。「今日できることは今日しておく」,と言うのは簡単ですが,「明日でもいいことは今日しない」と逃げるのが人の弱さです。ましてや子どもはなおさらです。「さあ,始めなさい」のママの声です。
ガンバレと激励され,ガンバルと自覚することがあります。ガンバルとは,どういうことを言い表しているのでしょうか? 以前お話ししていたように,ガンバルとは「もうこの辺で止めよう」と思ったときに,もうちょっとだけ続けることです。休憩の後に,「さあ,もうひとがんばりするか」。
「今日はここまで」と,気持ちの上に始末をつけます。そこで,もうちょっと続けておきます。すると,翌日は,前日にやりかけていたところから始められます。最も辛い最初の部分を,前日の勢いの中で仕上げておくのです。始めるのはしんどいですが,続けるのは楽なのです。
ママが食事の世話をするとき,夕食後片づけて台所をきれいにして,「さあ,終わった」と一日を終えます。そのときに,翌朝の準備をしておきます。すると,朝はさっと火をつけるだけといった感じで始められます。朝の気分はかなり楽になるはずです。子どもに「明日の用意をしなさい」と言っているママは,忘れ物をしないために,と思っているでしょう。それもありますが,翌朝さっと学校に行けるという,楽な立ち上がりが期待できるのです。
共同で仕事をする場合も,同じやり方が大切です。自分の役目はここまで,と始末をつけます。そこで,ちょっとだけ次の段取りの入り口を整えておきます。すると,次の仕事は楽に進めることができます。仕事に対する責任とは,自分の仕事だけをちゃんとすることではなく,それは当たり前のこととして,次へのつなぎを作っておくことなのです。自分の始末の上に次へのつなぎをつけておく,それが社会に通用する始末の付け方です。
玄関で脱いだ靴を明日のために外向きにしておく,出したオモチャは明日の遊びのために順序よく片づけておく,開けたドアは冷暖房が逃げないために閉めておく,使った食器は流しまで運んでおく,汚したぞうきんは洗っておく,出たゴミはゴミ箱に入れておく・・・。
・・・始末をつけるのは,次へのつながりを考えるときです。・・・
〇始末をつけると何が得られるのでしょう?
明日は明日の風が吹く。ママの気が滅入ったときには,この楽観さが心のビタミン剤になります。ママの心配のパターンは「このままでいいのか?」という明日への不安です。それを吹っ切るためには,今日と明日は違うんですよという視点を持つことが必要です。明日になれば何かが変わる,それが希望というものです。明日を思い煩う根拠は,今日と明日が同じだという思いこみです。
やらなければならないことがあるとき,明日でも間に合うから今日は止めておこうと思うことがあります。ところが,翌日になると新しいことが飛び込んできて,繰り越した用件ができなくなることが度々です。明日は今日とは違うのです。明日には明日やるべきことが待ち受けています。明日の風です。
世の中にはあれこれ役を引き受けて忙しい人がいます。仕事がこなせる人です。その秘密はどんな小さなことでも今日の内にきっちり始末をつけるというやり方にあります。仕事ができない人というのは,逆に一つのことでさえ明日に回して中途半端にしておく人です。特に共同作業の場合には,今日一工程が済んでいれば,明日は次工程に入ることができます。
暮らしの場では,家族みんなが汚れ物を洗濯機まで持ち込んでおいてくれたら,洗濯はスムーズに始められます。ママが苦しめられている「余計な仕事」とは,皆のし残した中途半端さなのです。どんなことにもこれで一通りという区切りがあります。そこまで仕上げて,やり終えたという区切りをつけることが始末です。
普段の家庭生活で始末をつけるやり方をしていると,よそでも自然に癖になって意識しなくても始末していきます。周りの者からは信頼を受け取ることになります。仕事が次々に頼まれてくるようになり,忙しい目にあいます。それでも,当人は端から見るほどたいへんと感じてはいないでしょう。
今日を今日で始末をつけておくと,明日は明日のことができます。心おきなく今日を終えていれば,明日を素直な気持ちで迎えることができます。明日回しにしたことは,倍になって明後日に回されます。夏休みの宿題のように・・・?
・・・始末をつけると,身も心も身軽になって余裕が得られます。・・・
〇なぜ始末をつけるのでしょう?
子どもの育ちは前向きです。その結果として,子どもはやりっ放しが普通です。出しっ放し,散らかしっ放し,広げっ放し,開けっ放し,食べっ放しなどひたすら前向きです。いくら前向きがいいとはいえ,たいがいにしなさいと言いたくなりますね。その感覚を大事にしてください。
ちょっと立ち止まって,片づけをすることは大切な始末です。一つ一つにちゃんとけりをつけていく癖がつけば,ダラダラした暮らしにメリハリをつけることができます。子どもの作文を読むと,○○して,○○して,と続くかと思えば,そして,そして・・・と際限がありません。行動の始末をつけていないからです。もしかしたら,ママのおしゃべりも止まらなかったりして?
規則的生活習慣をつけましょう。幼児期のアドバイスには必ず入っている項目ですね。夏休みなどには日記をつけることも勧められます。日記なんか書いてどうなるのでしょうか? 生活にリズムを持たせるためには,アクセントによる区切りが必要です。「今日は○○をした」と言い切ることです。それを直感しているから,子どもは「どこかに連れて行って」とねだります。どこにもいかないと,日記が書けない?
ママは「特別のことをしなくても,書くことはいっぱいあるでしょ」と逃げますが,「毎日,同じことばっかりになる」と切り返されて,それもそうだなと説得されそうになります。慌てて「同じでも,何か違うでしょ。気持ちを思いだしてごらんなさい」と別の提案をします。
ママは毎日毎日同じ生活を繰り返していますね。暮らしとはそういうものです。ところで,ママは毎日の献立を考えるのに苦労しますよね。何か違ったものを考え出さないといけません。「昨日はお魚をした」,「おとといはタマゴを使った」,「今日は麺でいこうか。実家から届いた麺も早く食べなくては」と日々の違いを見つけています。
子どもははじめての経験がたくさんあるはずです。それを「今日は○○をした」と,一度きちんと確認することは生きている実感を得る上で大切です。昨日も今日も同じという感覚にはまると,生きていてもつまらないという結論しか出てきません。今日も何もなかった,それは自分の一日に始末をつけようとしないからです。毎日同じように学校に行きます。でも,今日は新しいことを学んだはずです。それを確認できたら,充実感が湧いてきて,生きている自分を見つけることができます。
・・・始末をつけるとは,今日を生きたという実感を掴まえるためです。・・・
〇どのように始末をつけさせればいいのでしょう?
子どもにしつけることは,ここが始末の付け所という区切りです。始末という字が示すように,ものごとには始まりと終わりがあります。始まりは簡単ですが,ここで終わりというところを教え忘れています。
喧嘩を始めたとき,相手が泣いたら終わりです。その終わりを知らないから,行き過ぎが起こります。元々が前向きである子どもには,終わりという字の持ち合わせはないのです。遊びだしたらきりがない,とママが嘆くように,きりという終わりを知りません。終わりを知らなければ始末のしようがありません。
○○時になったら,今日はお終い。まず,そのしつけから入ってください。朝寝坊で困るというママ以上に,朝寝坊は子ども自身にも良いことはありません。児童であれば学校に行きますが,起きて2時間までの頭は寝ぼけています。ギリギリまで寝ていて大急ぎで登校しても,頭は寝ていますから,ほぼ午前中の授業はほとんど無駄になります。勉強している振りに過ぎません。その朝寝坊を止めさせるには,早寝しかありません。早寝をさせるには夜更かしの禁止です。つまり,一日の終わりをきっちりとしつけることが,明日の一日を始める準備なのです。
学用品の使い方も大事です。鉛筆,ノート,消しゴムなどを使い切ることです。子どもは残り少なくなったから新しいものをと言ってくるはずです。最後まで使わせます。使い切ったという感覚を持たせるのです。中途半端な使い方しか知らないとモノを粗末にするといったケチな心配ではなくて,やり遂げたという経験を積ませたいからです。してきた学びの量を使い終えたノートの冊数で実感することができます。
何であっても,始めたら終わりまでつきあう,それも一つの責任の取り方です。欲しがったオモチャを与えたらすぐに別のモノを欲しがる,子どもの移り気はいったい誰に似たのでしょう? しつけにならないと断固として拒否すれば,子どもはオモチャをわざと壊して,「壊れたから新しいモノを」と戦法を変えて迫ってきます。この悪知恵は誰に似たのでしょう? オモチャを買い与えるときに有効期限を定めるのも一つの方法です。いつが終わりという目安を子どもに納得させるのです。期限が過ぎないと,次のモノはダメということです。
子どものダラダラを改善しようとするなら,小さな区切りをいろんな場合に用意してやってください。今日はここまで。メリハリを利かせるのは終わりです。終わりがないからダラダラするのです。10まで数えたら,風呂から揚がりましょう。
・・・始末をつけるとは,きっちり終えるしつけに因ります。・・・
《始末をつけるとは,自分への責任の取り方です。》
○自分の責任を果たすのは社会に生きる上で必要です。でもそれだけではまだ足りません。ここまでと限定された責任範囲は,後は知らないという無責任と紙一重だからです。世の中には誰の責任と区分けできない曖昧な部分や行き届かない部分がたくさんあります。特に,公共のモノはみんなのモノという意識から,誰も手出しをしようとしません。
道路沿いの小灌木が日照りで枯れそうになっても,放置されます。傍の会社にはたくさんの人が出入りしているのに,誰一人として一杯の水を与えようとしません。管理者の怠慢を責めることはあっても,灌木は黙って枯れていくしかありません。自分の責任ではなくても,できることには手を出そう,ちょっとぐらいのことだから,それが本当の社会人としての責任の持ち方でしょう。温もりとは,ワザワザ余計なことをすることです。
【質問8-11:あなたのお子さんは,一つ一つ始末をつけていますか?】
●答は?・・・もちろん,「
イエス」ですよね!?