*** 子育ち12章 ***
 

Welcome to Bear's Home-Page
4
「第 87-11 章」


『子育ちは できない自分 また見つけ』


■子育ち12基礎力■

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
『子育ち第11基礎力』

【学習力を身につけよう!】

《まえがき(毎号掲載)》
 子育て羅針盤では,子どもの育ちを6つの方向と2つの領域から考察します。6つの方向とは,「誰が,どこで,いつ,何が,なぜ,どのように育つのか」という問題視座です。また,2つの領域とは,「自分の育ち(私の育ち)」と「他者と関わる自分の育ち(私たちの育ち)という育ち」の領域を表します。6つの方向にそれぞれ2つの領域を重ねた12の論点が「子育て羅針盤」の基本的な考察の構成となります。
 この第87版では,子どもが育ちによって身につけていく能力の全体を考えていきます。人の育ちは複合的な能力を過不足無く獲得しなければなりません。もちろん特別な能力を伸ばすことも大事ですが,人間としての基礎的な能力が生きていく基盤になります。育ちのペースは子どもそれぞれに違いますが,成人までにはすべての力をそれなりに獲得できるように,側にいる大人がちゃんと導いておくようにしましょう。

●《問題》できない,足りないなどの状況と真正面から向き合う勇気がなければ,問題は具体化しません。できそうもないと端から諦めてしまえば,なんの問題もなくなってしまい,能力を育てる機会を失します。できなくていい,分からなくていいと考えるか,何とかできるようにならないかと考えるか,そこに育ちの分かれ道があります。幼い子どもでは,ただ単にしたいからという気持ちに押されて,意識しないまま問題に取り組んでいきます。大きくなって多少の知恵がつき始めると,易きに向く逃げの姿勢が出てきます。

●《試行》自転車に乗れるようになろうとすれば,とにかく乗ってみなければどうにもなりません。考えていても,乗れるようにはなりません。自転車に身を預ける技は,人が考えられる範囲を超えているからです。一般に物事は,実際にやってみなければ,どこまでできるのか,どれほどの不足があるのかが見えません。現実を確認することが,自分の問題を見定める基礎情報なのです。嫌われている試験は点数を競うものではなく,どこまでできたかを確認し,できなかったところを知る手段であり,学習行為なのです。

●《学習》見たことがないものは,あるということさえ知りません。知らないことは,知らないという自覚がありません。問題に直面して始めて,自らの無知に気付かされます。どういうことだろうと疑問を抱いたときから,学習が始まります。教えてもらうという他人任せではなく,学びたいという自分任せとなると,智慧の扉が開かれます。自分の能力の不足は,年長者と比較して始めて自覚できます。何を学ぶべきかは,先輩を見習うことから見えてきます。異年齢の関係が学習を促します。

●《集中》好きこそものの上手なれと言われます。好きなことをしていると,時間の経つのも忘れます。一心不乱に集中しているからです。同じことをしていても,ダラダラしているよりも,集中した方が身につきます。白けていたりだらしない振る舞いが嫌われるのは,意味のない時間つぶしでしかないからです。嫌々食べる食事が身にならないのと同じです。打ち込んでいる姿が美しいのは,その一瞬が育ちの瞬間だからです。溌剌とした子どもの姿,集中しているからですよね。

●《実行》知って分かったということで学習は終わりません。学習の後始末をしなければ終わりません。知ったこと,考えたこと,分かったことは,自ら実行できることが確認されたときに修了となります。定着化するということです。乗り物の中でお年寄りに席を譲るということを知っていても,そうしなければ学習を終えたとは言えません。万引きをしてはいけない分かっていても,捕まらなければいいと万引きするのも,修行が足りないということになります。実行できてこそ修行が終わります。



 現在社会は分業によって機能しています。生きるために必要なことは多様です。衣食住それぞれが高機能になるにつれて,一個人ですべてをまかなうことは不可能です。専門家に頼るというシステムを構築してきました。お互い様の助け合いです。絆という言葉がクローズアップされましたが,助け合っているという意識が薄れていたという反省が込められています。誰も独りでは生きていけないという自覚がなければ,社会人にはなれないということです。子どもの意識における社会化を忘れてはいけないのです。

★落書き★

 飲み屋さんで「おあいそ」といえば,「お勘定をしてください」という意味です。なぜ「おあいそ」というのでしょう。昔は常連客になると,飲み代は全額を払うものではなく,毎回1割ほどをツケとして勘定を残しておくのが通の払い方とされていました。逆に,ツケを払いきることは,その店との縁を切ることを意味していたのです。そこで,「おあいそ」という言葉には,もともと「愛想が尽きたので,勘定を払い終える。もう二度と来ない」という意味が含まれていたのです。本来の意味からは,お客がおあいそと笑顔で言うのはおかしな話なのです。

「子育ち12章」:インデックスに進みます
「子育ち12章」:第87-10章に戻ります
「子育ち12章」:第87-12章に進みます