*** 子育ち12章 ***
 

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「第 9-01 章」


『任せたと 言えない親の 忙しさ』


 ■はじめに

 司会の方からご紹介を頂きましたが,ここで一言自己紹介をさせていただきます。私はこれまで妻以外の女性とキスをしたことがありません。「!?」。いきなり妙なことを申し上げましたが,皆さんはどのように受け取られましたでしょうか?

 こんなところでのろけを言ってと思われた方,ウソ〜と思われた方,少し愚痴っぽいなと思われた方,もしかしたら考え事をしていて聞き漏らされた方もおられるかもしれません。私は皆さん方に同じように申し上げました。皆さん方にはそれぞれに私の言葉を受け止めていただきました。でもそれがお隣の方とは違った受け止め方になっています。自分はのろけと受け止めてニヤッとされたとしても,お隣の方はそんなのウソだと否定されているのです。

 同じ言葉を聞きながら,伝わったことは一人ひとり全く違ってしまいます。そんなつもりで言ったのではないのに,という会話のズレは皆さん方も経験されていることでしょう。どうしてこんなことが起こるのでしょう。それは私と皆さん方が今日が初対面だからです。私の普段の生活や言動をご存じではないからです。普段つきあっている人との間では,どういうつもりで言われた言葉であるか,正しく判断できます。

 知らない人からの言葉はその積もりの部分が分かりかねます。そこで自分の積もりを持ち出すしかありません。聞いた言葉に自分の思いを重ねるしかないのです。私の自己紹介をのろけと受け取られた方は,のろけであって欲しいと無意識のうちに願う自分の気持ちが重ねられています。ウソ〜と受け取るときは,自分がそうであるからか,のろけであって欲しくない気持ちが反応しています。

 一見の相手からの言葉は,相手の意図ではなくて,自分の意図で言葉を解釈してしまうものです。これから私はたくさんの言葉を皆さんにお届けします。その言葉を皆さんは自分の気持ちを重ねて受け取っていくはずです。私の意図とは違ってしまうこともあります。それでいいのです。講演を聴くというのは,講師が届けてくれる言葉によって,自分の気持ちを少し動かすことなのです。私を理解していただく必要はありません。私の言葉を材料にして,皆さん方ご自身が自分の言葉を聞いて頂ければいいのです。それでは,そろそろ本題に入りましょう。



【チェック第1条:子どもに決めさせていますか?】

 《「決めさせる」という内容について,説明が必要ですね!》


 〇第1条の意味?

 はじめに,全体の構成をお話ししておかなければなりません。子育ての自信が持てないという若い親御さんが増えています。あれもこれもと忙しく親業を務めていても,フッとこれでいいのだろうかという不安が湧いてきます。知らない土地に迷い込んで,先が見えない状態と同じです。羅針盤があれば少しは安心できるでしょう。

 お化粧をするとき,私は化粧をしませんので分かりませんが,基礎化粧というのがあるようです。最小限これだけをしておけば大丈夫というものです。子育てにも必要最小限な課題があり,それを知ることができたらひとまず安心できるはずです。それをこれからお話しいたします。

 物事を考える方法は,小学校で習っています。それは5W1Hです。だれが,どこで,いつ,なにを,なぜ,どのように,という6つの疑問に答えれば,物事は最小限明らかになります。誰が育つのか,どこで育つのか,いつ育つのか,何が育つのか,なぜ育つのか,どのように育つのか,それが必要最小限の問題設定です。

 もちろん,それだけでは十分ではありません。基礎化粧の上に,あなたらしい美しさを重ねておられますよね。6つの問に,必要なものと十分なものを答えようとすれば,6×2=12になります。それが「12条」の構成なのです。

 子どもを育てるとは,この12条を抑えておくことです。必要なもの6条が「基礎子育て」,十分なもの6条が「個性子育て」に相当します。この個性子育ては社会性の育てに重なります。個性とは社会の中でこそ意味があるものだからです。12条のどれかが欠けたとき,それが生きていくときのアキレス腱になると申し上げておきます。

 まず,誰が育つのか? 誰がって?,それは子どもに決まっている! 普段そんなことは考えたことがないでしょうが,そこを曖昧にしているから,子育てと子育ちのすれ違いが起こるのです。それではそろそろ,第1条の扉を開けることにしましょう。

・・・育っているのは子どもじゃありません!・・・


 〇第二の誕生?

 あまりうれしくないのですが,自殺という言葉があります。字を思い出してください。自分を殺すと書きます。殺すのですから殺人事件です。犯人がいるはずです。犯人は誰でしょうか? 自分ですね。殺されるのは自分,殺すのは自分。自分が二人いることになります。そこで,自分ともう一人の自分と呼ぶことにします。死んではいけないと止めてくれるのも,もう一人の自分です。もう一人の自分が自分を生かしているのです。

 我思う故に我あり。思う我がもう一人の自分です。このもう一人の自分はかつて物心がつくと言い表されてきました。すなわち,赤ちゃんとして生まれて育ち,3歳ごろになってもう一人の子どもが生まれてくるのです。第二の誕生です。

 自分の名前を理解し,自分のことを○○ちゃんと名前で呼ぶようになった頃,もう一人の子どもが生まれています。このもう一人の子どもを育てなければならないのです。産みの親から育ての親に変わるときです。ドラマで産みの親と育ての親が子どもをめぐって争うという設定が出てくることがありますが,子どもは育ての親を選ぶことが多いですね。もう一人の子どもを産み育てているのが育ての親だからです。

 このもう一人の子どもの誕生には,父親の参画が不可欠です。乳児のときには,子どもは母親と一心同体です。もう一人の子どもはまだ母親の懐に抱かれているのです。その母親が時折子どもを一人にしておくことがあります。自分の一部である母親が離れていきます。何が起こったのだろう,母親はどこに行ったのだろう,そう思わせられるのです。このときが,もう一人の子どもの誕生の瞬間です。

 母親の子離れが陣痛となって,子どもの母離れが起こります。母親が自分よりも別の人に寄り添っていることがある,あれは何? 自分から母親を奪う嫌な奴,でも母親が仲良くしているからいい奴かもしれない,そんなことは考えないでしょうが,感じ取ります。この気になる奴が父親であり,父親の最初の役割です。つまり,子離れ,母離れを促すのは父親であり,母親を妻にして自分の方に引きつける夫としての魅力を持つことが求められているのです。

 こうして産まれてきたもう一人の子どもを,私たちは育ててきたでしょうか? ただ漠然と単純に子どもを育てていると思っていたのではないでしょうか? 次に,そのことを確かめてみることにしましょう。

・・・育つのはもう一人の子どもです。・・・


 〇透明な存在?

 神戸の悲惨な事件の犯人であった少年が,透明な存在という謎の言葉を突きつけてきました。何のことか分かりませんでしたが,同世代の子どもたちは何となく分かると言っていました。この謎を解いておかなければ,今風な子育てに潜むバグを取り除くことはできません。

 近頃の子どもは何かするとすぐ「疲れた」と言います。スケジュールが過密であるという実態が背後にはあるようですが,疲れるわけを探っておきましょう。楽しい土曜日から日曜日のサザエさんまではいいのですが,番組最後のジャンケンに勝ったとしても,その後はお疲れモードに入ります。しなければならない,させられることに直面すると,人は疲れを感じるようになります。

 日曜日になると,普段は寝起きの悪いパパさんも自分から早く起き出して,釣りに出かけます。仕事を前にしたときの疲れた顔はきれいに洗い流されています。学校では,子どもは授業が始まると途端にお疲れモードですが,昼休みは1時間走り回っても疲れたとはいいません。遊んでいるときは疲れないものです。

 子どもの生活は,ママや先生に「ああしなさい,こうしなさい」と矢継ぎ早に急きたてられています。させられるから常にお疲れモードに入りっぱなしなのです。子どもが疲れるのは,子どもがママに憑かれているからです。昔は狐憑きでしたが,今はママ憑きなのです。ママに支配されて,しなければならない状態に常に引きずり込まれているのです。

 自分の中にはもう一人の自分がいて,自分を生かそうとするのが自然な状態です。ところが,自分の中には何もなくて,背中に背後霊のように張り付いているママが透けて見えています。自分は透明な存在に思えてしまうのです。裸の王様は衣装が透明でしたが,ママ憑きの子どもは中身が透明になっています。かなり比喩的な言い回しですが,子どもの直感を表現しようとすれば,透明な存在という言葉はかなり意味深長です。

 子どもが「疲れた=憑かれた」と言っている声は,私たちには伝わっていなかったようです。親はどこでもう一人の子どもを見失ってしまったのでしょうか? その原因を明らかにしておくことが,次の課題になります。

・・・子育てでは,もう一人の子どもは育てられません。・・・


 〇可能性を育てる?

 子どもは無限の可能性を持っていると言われています。将来どんな人にもなれるチャンスがあります。educate は教育するという英語ですが,その含意は可能性を伸ばすということです。そこで,大人は決心しました。子どもの可能性を伸ばしてやろう! それが大人の責任だと。

 時代の変化によって言葉の意味が変質することに気をつけなければなりません。古くから使われてきた言葉であっても,その時代によって意味は変化させられます。かつて,子どもは授かりものであり,子宝と考えられていました。今は子どもを作る時代です。ちょっと言い過ぎですが,少なくとも産む産まないを自由に決めることができます。

 授かりものの子どもに対して,子育ては常に謙虚でした。子どもが育つのを手伝ってあげるという立場を保っていました。可能性を伸ばすのは子ども自身,つまりもう一人の子どもであり,大人は見守り援助を惜しみなく与えるところに留まっていたのです。ところが,作られた子どもは可能性も作られなければならないことになり,親が子どもの可能性を引っ張り出そうとしていきます。誰が可能性を伸ばすのか,という主語が変わってしまっています。

 子どもは可能性の引き出しをたくさん持っています。どの引き出しも子どものものです。親であっても,ずかずかと踏み込んで,「あなたの可能性はこの引き出しだ」と勝手に手をかけたとしたら,嫌なはずです。同じ引き出しを開けるにしても,やはり自分の手で引き出さなければなりません。親が開けた引き出しは,親の押しつけた可能性であり,決して自分の可能性にはならないのです。

 授かった子どもと思うことで,一歩引いた子ども観を持っていた人たちは,もう一人の子どもによる子育ちというイメージを無意識のうちに大事にすることができていました。ところが,産むという言葉は主語が親です。私が産んだ子ども,そう思ったときから,「私が」という言葉が主語に定着し,子育てが私の役割と思いこむようになっていきました。子どもの誕生のときに既に,もう一人の子どもを気持ちの中から脱落させていたと言うことができます。

 産んだ子どもに対してその子独自の人格を認めるためにも,もう一人の子どもというイメージを持つことが大事です。反省をした上で,では,子育てから子育ちに転換するためには,どうしたらいいのでしょうか? そろそろ,指針を明らかにしておく必要がありますね。

・・・かつては,育つ主役はもう一人の子どもでした。・・・


 〇干渉?

 子どもたちが母親についてどんなイメージを持っているか,中学生に対して調査をしたことがあります。経年変化を見ると,一つの特徴が現れてきました。ほんの10年ほど前までは,母親とは自分を理解してくれる人でしたが,最近は指導してくれる人に様変わりしているのです。

 子どもを受け入れるのではなくて,指図している母親の姿が浮かんできました。子育てとはあれこれ指導することなりというわけです。子どものためによかれと心を砕いている気持ちは分かります。しかし,そのやり方がとても危ういのです。

 「勉強する時間でしょ」と子どもを追い立てます。子どもは「しようと思っていたのに」と呟きます。「何をぐずぐず言ってるの,早く」と追い打ちをかけます。親や大人は子どもを指導しているつもりです。ところが,子どもにすればそれは余計なお世話,干渉と感じています。どうしてでしょうか?

 指導と干渉の違いは何でしょう? それは子育ちと子育ての違いでもあります。結論を言えば,決定権をどちらが持っているかという違いです。指導とは「こうしたら」と導くことです。それに従うかどうかは,もう一人の子どもが決めるのです。子どもに決めさせないのが干渉です。もう一人の子どもが決定権を持つのが子育ち,親が決めるのが子育てとなります。

 校門で生徒たちを出迎えて,「おはよう」と声を掛ける指導的な運動があります。ほとんどの生徒は挨拶を返すでしょう。その中には,渋々挨拶を返させられている生徒もいるはずです。それが最も顕著になるのは,挨拶を返さない生徒に対して,「返事はちゃんとする」と強制してしまうことです。それでは指導になりません。

 指導とはあくまでも生徒に決定権を与えておくことです。挨拶を返すかどうかは,生徒が決めることです。したくないと決めてもいいのです。返事がなくても繰り返し挨拶をしていきます。そのうち,気分がいいときに,たまたま返事をしてみようかなという気になって返事を返してきます。自分で決めたのです。このとき子育ちをしています。返事をすると気持ちがいいじゃないか,そんなことに気付きます。それは自分から返事を返したからです。

 子育てとは,もう一人の子どもが決定するチャンスをたくさん与えることです。言うことを聞かせようとする高飛車な指導は禁物です。こうしたら気持ちがいいよ,いいことがあるよ,そんな機会に立ち会わせるだけに留めておいてください。このことは実は子どもが既に親に対して伝えていることなのですが,親が気がついていないだけなのです。

・・・子どもの勝手という余裕が,子育ちを可能にします。・・・


 〇反抗期?

 幼児が「いや」と拒否することがありますね。できそうにもないことを「自分でする」と言い張ることがあります。無駄なことだと大人は一蹴してしまうかもしれません。でも,子どもにすれば大事なことなのです。もう一人の子どもが自分を育てようとしているのです。大人は自分の都合に沿って単純に反抗期と言ってしまいますが,子どもにすれば子育ちプロセスそのものです。

 子どもは親を困らせようとしているのではありません。育ちを全うしたいだけです。もう一人の子どもが自分を動かそうとするから,子どもを操っていたはずの親が制御不能になるだけの話です。反抗期をただ単にそういう時期があるものだという風に,麻疹のようなものと考えているから,大切な意味を見落としているのです。子どもは反抗という形で,子育ちしようとしていることを親に伝えているのです。

 子どもが見せる拒否行動の中には,いわゆる単なるわがままなものもあります。この場合の子育てについては後程(次号)触れることにして,ここでは形はどうであれ,自己主張するのはもう一人の子どもが決めようとしてもがいているんですよと言っておきましょう。

 最近の子どもには反抗期が見られないという意見もあります。反抗することができないように育てられているのです。子育ちが過ぎると,先ほど触れたように,もう一人の子どもが未熟なままに抑え込まれたり,酷いときは知らないうちに中絶しているようなことになりかねません。子育ちができなくなっています。

 親の言うことをよく聞く素直ないい子と思っていたら,大きくなって現れた本当の姿に呆然とするという事態が少なくありません。子育ちのエネルギーはすさまじいものですから,年齢に応じて上手に発散できるように気を配ることが大切です。では,どうしたらいいのでしょう?(次号に続く)。

・・・親にとっての反抗はもう一人の子どもの育ちなのです。・・・



《決めさせるとは,もう一人の子どもの育ちを促すことです。》

 ○父親が自らの存在理由を掛けて,「誰のお陰で大きくなったと思っているんだ」と迫ることがあります。口には出さなくてもそう思っていることでしょう。辛い仕事をするときの自らへのムチとして,密かに自負しているからです。「たくさん食べて大きくなれよ」,それが長い間父親の願いでした。

 それはそれなりに意味のあることですが,あえて苦言を言わせて貰うと,「食べさせておけば子どもは育つ」と思っているとしたら,少しばかり時代遅れになっています。もう一人の子どもの育ちが見えていないからです。やがて,もう一人の子どもから「親らしいことをしてくれたか」と迫られて,あたふたとする羽目に陥ることでしょう。


 【チェック第1条:子どもに決めさせていますか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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