*** 子育ち12章 ***
 

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「第 9-03 章」


『迷い子が 迷ったママを 責めて泣く』


 ■はじめに

 皆さん方は今日,子育ての話を聞くためにわざわざおいでくださったのですが,のっけから「子育てよりも子育ちを」という内容が飛び出して,ちょっと戸惑っておられることでしょう。子育てと子育ちの違いを際だたせるために,多少意識的に話を進めてきましたが,それほど重たく受け止めることはありません。幽霊の正体見たり枯れ尾花,どんなことでも正体が分かれば恐くはないので,安心してください。分からないから恐いと感じるのです。

 ところで,あちらこちらにお招きを受けてお話をさせていただいておりますが,どこの会場に行っても,必ずと言っていいほど,この最前列の席が空きます。安心できる場所は中ほどから後ろの方ですよね。講堂のような広い場所の最前列は演台を見上げるような姿勢になるので疲れますが,今日の会場は会議室ですので,最前列は疲れる姿勢を取る必要がありません。

 最前列を避ける理由は何でしょう? 講師と直面することが不安であり,同時に皆から浮き上がることが心配なのでしょうか。この場所に立つ人が素敵な俳優や歌手の方であれば,我先に最前列の席は取りあわれるでしょうに! 距離を置かれると,疫病神と思われているようで,とても悲しい気分です。

 私事は置いておきまして,皆さん方はこの会場の中で,それぞれの理由から安心できる場所を選んでおられます。司会者の方から前に詰めていただくようにお願いされて,つい最前列に座ってしまうと落ち着かないことでしょう。何となく不安でおちおち話を聞いていられなくなります。

 不安で落ち着かない場所にいると,何をしても上の空になります。不安を堪えるのに懸命で,何かをしようという気持ちの余裕が失われます。せっかくの講演会が無駄になります。皆さん方は安心して聞いていただいているようで,私も安心です。というところで,それでは,そろそろ本題に入ることにしましょう。



【チェック第3条:子どもを安心させていますか?】

 《「安心させる」という内容について,説明が必要ですね!》


 〇第3条の意味?

 全体の構成である「誰が育つのか,どこで育つのか,いつ育つのか,何が育つのか,なぜ育つのか,どのように育つのか」という問題設定の二番目に,話が進みます。子どもはいったいどこで育っているのでしょうか?

 どこで育つのか? どこって?,それは学校や家庭に決まっている! 子どもの生活圏は家庭・学校・地域であると,普段からPTAなどでも言われていることでしょう。確かに,具体的な場所としてはそうなのですが,例えば,家庭であればどんな家庭であってもいいということではありませんね。子どもの育ちにふさわしい家庭というものがあります。

 植物の種は,部屋に転がしておいたら,いつまでも種です。スイカの種はスイカの中にある間は決して芽を出しません。種は大地に蒔かれたときに,育ちの活動に入れます。その大地はどんな大地でもいいというわけではありません。乾燥した砂の大地では育ちは望めません。豊穣な土地でなければならないのです。育ちに適当な環境の条件を探しておくことが大事です。

 家庭の話に入る前に,学校についてちょっとだけ考えておきましょう。学校とは学ぶ処です。当たり前ですね。ところが,大人はそれを忘れています。先生は学校を仕事場,教える処と思っています。その証拠に,部屋を「教室」と呼んでいますし,親もつられています。そこから,子どもは学校に行く義務を負っているという勘違いが起こります。

 義務教育の義務とは,自治体及び親が負うべきものなのです。子どもの学習の権利を満たす義務が大人にあるのです。先の話に結びつければ,学ぶという子育ちを支える意味で教えるという子育ての義務が発生しているのです。学校に行きたくないと言う子どもに対して,自責の念に駆られるべき者は大人の方です。学びにいけないような学校しか用意できないでは,義務を果たしているとは言えません。大人の考え違いが,子どもを追い詰めています。

 家庭も同じです。子どもの権利条約というものがありますが,要は子育ちを支援する義務を大人は負っているという確認です。ちゃんとご飯を食べさせて,園や学校にやっていればいいという単純なものではありませんし,ましてや子育てを振りかざすような主客転倒は,条約違反になります。だからといって,逮捕されることはありませんが,大事な子どもの身に報いが現れます。

 子どもの育ちに相応しい家庭とは,どんな家庭なのか? 第3条の扉を開くことにしましょう。

・・・子育ちに必要な場とは,ハウスではなくてホームです!・・・


 〇目立ちたい?

 マスコミをにぎわすような事件を起こした少年が,動機として「目立ちたかった」と語ります。それだけのことで事件を起こすとは,と大人は思いますね。どうして目立ちたいと思うのでしょうか? それほど大事なことなのでしょうか? その背景をつかまえておかなければ心配です。

 どうしてなのか逆らうことの多い子どもがいます。反抗するのは自立の現れであるのですが,そうとばかりは言い切れない場合もあります。下の子が生まれたときに,急に甘えん坊になったり,言うことを聞かなくなったりすることもあります。そんな目立った変化が見られないときは,おねしょといった形で吹き出してくることもあります。いずれにしても,子どもは親の気を引こうとしています。目を向けて欲しいというサインです。

 子どもは大人といっしょに暮らす中で,自分にはできないことや分からないことがあることを思い知らされています。もう一人の子どもは自分の未熟さを不安な思いで抱え込んでいます。支えが必要なのです。自転車に乗れるまでは補助輪が必要なことと同じです。支えがあれば安心して,ペダルを漕ぐことができます。

 見守られていたい,見てもらっていれば安心できます。そばに頼れる人がいる,それはママにとっても同じように,心丈夫なものです。種が芽を出すとき根を大地にしっかりと張って,支えられているから大空に向かって伸びていくことができます。子育ちも同じです。もう一人の子どもを安心させてやれば,自分を育てる気力が湧いてくるはずです。

 目立ちたいとは,見られていたいことです。自分をもう一人の自分が見ていますが,自信が持てません。親にも見てもらっていれば,安心です。育つにつれて生意気になっていきますが,それはあくまでも親の見守りの中にいるという安心が下支えになっているのです。孫悟空がいくら強がりを言っても,結局はお釈迦様の手のひらの中であるということと同じです。

 中学生になっても,帰宅して誰もいない家で一人で留守番をしていると寂しくなって,部屋のガラス窓に息を吹きかけて指で「母さん」と書くことがあります。そんな寂しい思いをさせてはいけないと言うのではありません。自立する上で乗り越えるべきことですから,育ちには必要な試練です。ただ,そんな思いを子どもが抱くということを,親は弁えておいて欲しいのです。

 幼児期の子育てが終わると,いきなり子育てから卒業という早とちりをしがちです。子育ちを支えるという親心を置き忘れて,見守るというフォローが疎かになります。日常的な世話をすることだけが子育てと思いこんではいないでしょうか? 次に,そのことを確かめてみることにしましょう。

・・・子育ちを見守ろうとすることが親心です。・・・


 〇子ども部屋?

 子育てに関する話の中で,居場所という言葉が出てくることがあります。居場所とはどんなところでしょうか? あらためて考えてみましょう。種が芽を出し育つためには,根を張る土地が必要です。子育ちの場所,それが居場所です。

 子どもが学校に行くようになると,自分の机,自分の部屋を欲しがります。子ども部屋が用意されます。子ども部屋の窓のそばに勉強机が置かれていることでしょう。夕食のあと,テレビを見ている子どもは,「もういいでしょう,部屋に行きなさい」,とリビングから追い立てられます。部屋に行った子どもは机に座って勉強するでしょうか? しているはずと,ママは思っているでしょう。

 会社に出かけたパパが,「あなたは今日から,あちらの窓際の席で仕事をしてください」と言われたら,仕事をする気になるでしょうか。窓際とは,一線から外れることです。仕事場とは喧噪な雰囲気の場所です。わいわいがやがやの中で,仕事は進みます。静かにお勉強,それは一理があるのですが,ひとりぼっちだったら,静けさは逆に働き,寂しさがやる気を奪っていきます。

 子どもを子どものために子ども部屋に押し込めるのは,子どもを孤独に閉じこめることです。自分だけ外されるのです。本来,子ども部屋とは寝室です。勉強などの活動をする場所は,ファミリールームです。家族がそれぞれに活動をしているから,自分も勉強しよう,それが自然なのです。子ども部屋に隔離された子どもは,家族が何をしているか気になってしようがありません。傍にいれば,気配で分かりますから,安心できるのです。

 誰もいない家に帰ってくると,落ち着きませんね。おそらくテレビをつけるでしょう。人の話し声が聞こえていると安心するものです。子守歌を聴かせると子どもは眠ります。体をそっと調子よく叩いてやると,スヤスヤと寝息を立てますね。傍に誰かがいることが伝わっていると,安心できるからです。

 子育ちに相応しい環境,ホームである条件は,家族の存在がお互いに伝わるということです。ママが呼ぶ声が全員に聞こえるということです。ホテル家族という言葉がありましたが,それは隔離された個室であり,お互いの存在を消し去ることです。静けさを求めすぎると,根っこがなくなります。

 隔離された子ども部屋で育った子どもは,気配を読む能力がそぎ落とされて,あとで社会性の育ちにも支障を来すようになります。自分がいる場所を家族との共通な場所と意識する気配りが失われるからです。居場所は安心する場所であると同時に,他者との共通なつながりを持つ場所でもあるのです。子どもとの関係をあっさりと切ってしまうようなことを,どうして親はしでかすようになったのでしょう? その原因を明らかにしておくことが,次の課題になります。

・・・子どもを隔離することは子育てではありません。・・・


 〇不要家族?

 忙しいパパは子どもと遊んでやれません。悪いなと思いながら,仕事だからと泣く泣く自らを弁護しています。そんな親の苦労も知らずに勝手なことを言う子どもに,つい「だれのお陰で育ったと思っているんだ,お前たちのために苦労しているんだぞ」と声を荒げます。親としての逆鱗に触れるからです。中学生くらいになると,「そんなことを頼んだ覚えはない」と言い返します。「何だ,その言いぐさは」とエスカレートしていきます。

 子どもは,親の苦労は分かっています。しかし,それが自分のためだと言われると辛いのです。自分がいるばっかりに父親が苦労する,父親にとって自分は余計なお荷物と宣告されているからです。子どもにとっては最も聞きたくない言葉です。だから,頼んではいないのです。それだけは言わないでという願いなのです。

 忙しいママは子どもをハヤクと急かせます。子どもが園や学校に行くようになると,「やっと手が離れた」とホッとしています。朝見送ってくれるママはニコニコしてとてもうれしそうです。子どもは自分がいなくなることをママは喜んでいると感じるときがあります。そんなはずはないと打ち消せるつながりがあればいいのですが,そうでないと子どもは不安に襲われます。行きたくないとごねるようになります。離れるのが恐いからです。

 子どもはいつも気にしています。自分はパパやママにとって,どんな存在なのかということを。あなたなんか産まなければよかった,ママにそう言われたら,どんな思いになるでしょう。あなたがいるばっかりに,そんなママの愚痴を子どもは受け止めることができるでしょうか? そこまであからさまではないにしても,ついつい邪魔にすることはきっとあるはずです。

 バタバタしているときに限って,まとわりついてくる子ども。「あっちに行ってなさい」。ママはバタバタしているから,子どものことは眼中にありません。子どもは自分のことを目の中に入れて置いて欲しいのです。何をしてくれなくても,ただ話しかけてくれるだけで安心します。無視されることが恐いのです。

 学校でシカトすることはいじめになりますが,家庭で親は気がつかないうちにシカトしているかもしれません。それは居場所を奪うことです。そう言われても,暮らしの中でいつも子どものことばっかり気遣っていられないのが現実です。それでいいのです。ただ,子どもが何を求めているかを知っておいてください。そして,日頃のご無沙汰をきっちり埋め合わせるように,ちょっとだけ手間を掛けて下されば,子育ちは大丈夫です。どうすればいいのでしょう?

・・・子どもと手をつなぐから親になることができます。・・・


 〇ものを大事に?

 パパが泊まりがけの出張から帰宅します。「お帰りなさい」と子どもが元気よく迎えます。パパの手から鞄を受け取って奥に入ります。パパは玄関に置き去りです。どうやら鞄を待っていたようです。鞄を開けて探していますが,やがて「あった」と取り出しました。おみやげです。遅れて入ってきたパパに「パパ,アリガトウ」と言いながら,手はおみやげの包みを開けていきます。

 子どもの喜ぶ様子を見ながら,パパは疲れを癒していきます。数日すると,そのおみやげが部屋の隅に転がっています。せっかく買ってきてやったおみやげは,忘れられています。ママはパパの目に触れないように,そっとしまい込みます。飽きっぽいと診断し,ものを大事にするように言い聞かせるチャンスと考えて,子どもに注意をします。子どもはなぜ叱られているのか,分からないかもしれません。

 あんなに喜んでいたのに,どうしてでしょう。子どもって,そんなに飽きっぽいのでしょうか? そんなことが続くと,親はやがておみやげを買ってくるのを止めるようになります。子どもにとって,おみやげとはどんな意味があるのか,考え直してみませんか。

 おみやげを買うとき,家で待っている子どものことを思い出しています。何を喜ぶかなと,子どものために気を遣っています。おみやげを手にした子どもは,「パパはお仕事で家を離れていても,ちゃんとボクのことを気に掛けていてくれた」というメッセージを受け取っているのです。おみやげはその証拠に過ぎません。「あった」という喜びは,それを確認できたうれしさに他なりません。証拠品は用が済めば,要らないのです。

 親は子どもがものを大事にしないと見ていますが,子どもは親の自分に対する気遣いを大事にしているのです。子どもがおみやげを喜んでいる傍で,ママはちょっぴり寂しい気持ちになります。私にはおみやげがないと。私のことは思い出してくれなかった,という逆のメッセージを受け取るからです。お金で買ったおみやげですが,実は心配りを具体的な形にしているのです。

 あなたのことを気に掛けていますよ,そのメッセージを伝えるように工夫をして下さい。いくら心でそう思っているといっても,子どもは具体的な表現でなければ受け取れません。いっしょに遊んでくれるのを喜ぶのも,親の気持ちが子どもに向かっているからです。冷蔵庫を開けたら自分の皿にケーキが載っているとか,自分のために作ってくれたママの手料理,そんなちょっとした手間を掛けてやることが,子どもを安心させるのです。お相伴させられるパパはちょっぴり寂しくなりますが,おみやげのお返しと諦めねば・・・。

・・・ものの価値はそれを包装している心根にあります。・・・


 〇キビダンゴ?

 本を読むことはいいことです。なにかよく分からないにしても,そう信じていればいいのです。おとぎ話を長い間言い伝えてきた代々の親たちは,そうでした。しかし,教育を受けた現在の親たちは,どんなことにも納得しようという習性を身につけています。分からないことをそのままにすると,落ち着かないのです。分からないことに取り組むことを不安に感じています。意味を問うという賢さは,かえって臆病風を煽ります。

 さて,おとぎ話の一つに,桃太郎の話があります。鬼ヶ島に行って,悪い鬼を退治して,奪われていた金銀財宝を取り返すというお話です。正義の勇者という教訓話としての意味を見つけたら,子どもに話して聞かせる価値があると判断できるかもしれません。でも敢えて言うなら,金銀財宝は桃太郎の家のものではないはずです。それを自分の懐に入れたなら,泥棒の上前を跳ねる仕儀となり,ちょっと困ったことになります。

 冗談はさておいて,桃太郎の話の大事なところは,別のところにあります。生活の知恵を前提にしておかなければ,この話は単なる冒険談に終わってしまいます。桃太郎の家来になった犬と猿は,犬猿の仲として,最も仲の悪い組み合わせなのです。普段の生活で,犬猿の仲という言葉を使っていれば,すぐに思い浮かびます。

 仲の悪い犬と猿が,どうして桃太郎といっしょに鬼退治に参加できたのでしょう。そこに桃太郎の教訓があります。最初に出会った犬と,桃太郎はキビダンゴを与えることで,仲間になりました。次ぎに出会った猿にも,同じようにキビダンゴを与えて仲間になりました。犬と猿は直接仲間になったのではなくて,犬と桃太郎,猿と桃太郎のペアになっているのです。桃太郎につながるものとして,チームが編成できました。

 桃太郎の話を覚えていて,友だちづきあいを桃太郎と同じように単純に真似ていけば,大事な知恵はそれとは意識することがなくても,生かされていきます。隠された知恵があること,それを直感的にくみ取っていた親たちは,ごく自然に子育てをしていたことでしょう。桃太郎の教訓を説き明かすことは,笑い話の解説をするようなもので,野暮なことなのですが,講演の宿命とお許し下さい。

 教訓とは実践しなければ無駄になります。子どもたちの留守番をしている家にママが帰ったとき,「ただいま」とみんなに声を掛けているでしょう。そうではなくて,「○○ちゃん,ただいま」,「●●ちゃん,ただいま」と,一人ひとりの名前を呼んで声を掛けてやってください。幼い子どもであれば,一人ひとりぎゅっと抱きしめてやって下さい。子どもたちとひとくくりにするのではなくて,一人ひとりと個別にキビダンゴ契約を結ぶのです。

 子どもたちの感覚では,僕たちのママではなくて,ボクのママと思っているからです。その証拠に,子どもたちは,留守中にあったことを,それぞれがママに報告しようとするでしょう。いっぺんに話したら分からないでしょ,と遮りますよね。私とママが話したいのです。パパとの仲も同じです。ボクのパパであり,だからママに内緒な話を,弟に秘密な話をしてくれるのです。一対一の確かな関係,それが子どもの居場所の基本形なのです。

・・・桃太郎といえばキビダンゴ,と言われてきたわけがあります。・・・



《安心させるとは,子育ちの根っこを支えてやる子育てです。》

 ○安心させなければと考えすぎて,子どもを不安な状態におかざるを得ない現実を責めないで下さい。逆説的ですが,安心しか知らない子どもは,安心が得られなくなります。安心と不安は必ずセットになっています。不安な体験があるから,安心できるのです。

 ママがいなくて寂しかった,だからママの胸に飛び込んで泣いているときに,安心が優しく心を包んでいきます。不安はどこにもいつでもあるものです。それを安心で包むように,気配りをしていればいいのです。ごめんね,そんなママの声を子どもは心にそっと刻んでくれるはずです。


 【チェック第3条:子どもを安心させていますか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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