*** 子育ち12章 ***
 

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「第 9-04 章」


『親心 子の不始末で 現れる』


 ■はじめに

 ところで,本日の講演会に出席されるのに,皆さん方は入場料を支払って頂けましたか? 「エッ,タダじゃなかったの!」。「冗談ですよ」。大道芸では,観客が見た甲斐があったと思ったら,観覧料を投げ銭していただけます。でも,この講演では,まさかそんなことはありませんよね。同じコウエンでも,座長公演ならお札の首飾りがいただけるのですが,それほどの感動は望むべくもありませんから,最初から諦めています。

 さて,情報化社会の中で,情報はタダであるという前提が罷り通っています。ある宴席で,たまたま同席した方が弁護士であると分かると,急に相談事に話を移す方が多いそうです。弁護士への相談料は30分,5000円ですが,宴席のよしみでタダで相談しようとされるのです。話はタダで聞けるという習慣が,ラジオやテレビの無料放送に馴染むことで定着しています。実のところ,タダで聞ける話とは,大して役に立つものではありません。

 もちろん,今日の講演は無料でしているはずはありません。なにがしかの対価を頂けるはずですが,聞いている皆さん方は無料です。この講演会を開催している方が立て替えているのです。本当に奇特な方です。私にも,皆さん方にもありがたい方です。ちょっと下世話な話になりました。

 さて,皆さん方は,本当にタダで聞いておられるのでしょうか? 忙しい時間をやりくりして,あるいは用件を後回しにして,この時間を私と共有してくださっています。講演会に来なければ,なにがしかの得をされているはずです。ワザワザお越し頂いたという代価を費やしておられます。いったん会場に入ってしまうと,途中でチャンネルを切り替えるわけにもいかず,眠いのを無理矢理我慢するといった苦労もお掛けしております。そんなこんなにお応えするためにも,中身のあるお話をと,こうして汗をかいております。

 お互いにとって金銭的な関係は成り立っておりませんが,この会場内では一時的な信頼関係があります。何かいい話を聞けるかもしれない,役に立つお話ができたらいいが。そんなお互いに対する善意の関係です。儲けてやろうという下心はないはずです。信頼とはタダの関係ですが,その最も原初は親子関係にあります。お金では購えないものがあることを,子どもにしっかりと伝えておきたいですね。ということで,子育ての話に入りましょう。



【チェック第4条:子どもに信頼されていますか?】

 《「信頼される」という内容について,説明が必要ですね!》


 〇第4条の意味?

 全体の構成である「誰が育つのか,どこで育つのか,いつ育つのか,何が育つのか,なぜ育つのか,どのように育つのか」という問題設定の二番目に,話が進んでいます。前節では,子どもは安心できる居場所で育っているとお話ししました。逆に言えば,不安を抱え込むと子育ちを停止します。不登校や引きこもりといった袋小路,あるいは非行などへの逸脱の道に迷い込みます。

 もう一人の子どもが安心していれば,子育ちをします。すくすくと育って手が掛からなくなり,世話の要らないいい子になっていきます。そこで,親は安心して目を離します。しかし,目を離したときに,何かが起こるものです。いい子とはいえ,まだ育ちの途上にある子どもなのです。子どもを放置できるは,ずっと先の二十歳になってのことです。

 子どもは育つ中でいろんな新しい局面に出会います。未経験なことばかりですから,それに向かっていくことは大きな不安を生み出します。いつも子どもに寄り添える体制をとっていなければ,次々と襲ってくる不安を解消する支援ができません。子どもを見守っていなければならないのです。もちろん,四六時中いっしょにいるべきだということではありません。

 子どもが何かに不安を感じていても,やらなければという思いや,やってみたいという意欲を持てれば,何とか育ちの歩みは続いていきます。しかし,それには,大きな安心が背後になければなりません。親が見守っていてくれるという,親への信頼です。親の姿がないと泣き出す子ども,親がいれば親の傍に寄りつくことなく遊んでいる子ども,子どもにとって信頼できる親がそこにいるだけで十分なのです。

 子どもの育ちを促す親に対する信頼,それはどういうものか,どうすれば得られるのか? 第4条の扉を開くことにしましょう。

・・・子育ちには信頼という名のへその緒が不可欠です!・・・


 〇家の人?

 いじめを受けて自殺に追い込まれた中学生が遺書を残しました。その冒頭に記されていた言葉が,「家の人へ」だったのです。このことが妙に気になりました。何か引っかかるものを感じたのです。しばらく考えてみました。もし自分だったら? おそらく「お母さん」だったのでは?

 この中学生の家庭のことは全く知りません。それでも,最後の言葉が「家の人」に宛てられていたことが,とても悲しく思われたのです。追い詰められたとき,もう一人の子どもが助けを求めるのは最も信頼する人でしょう。それが家の人という曖昧な人,どちらかというと他人行儀な響きを帯びた関係であるとしたら,どこに頼ればいいのでしょう?

 プチ家出をしている女の子を補導して,「お家の人が心配しているよ」と言うと,「どうして?」と問い返されるそうです。心配するのが親という図式はもう描けなくなっているようです。親離れや子離れをすれば,お互いに用はないという冷めた関係が普通なのでしょうか? 子どもからたまたま同居しているだけと思われる親とは,どうなのでしょう?

 信頼関係は,困ったときに頼るということだけではなくて,信頼を裏切らないという自己抑制にもなります。どちらもなくなることは,荒野にはぐれた子羊状態です。危機管理という意味でも,野放しにするのはゆっくりした方がいいのですが,ここでも見守りというフォローが疎かになっています。

 どうしてそうなるのでしょう? 子育てに関するイメージがいつの間にか変質してしまっています。子育ては園や学校に行かせるまで,という期間限定がなされています。学校に行っている間は,親は親であることを脱ぎ捨てています。自分のことにかまけています。忘れているのです。手を掛けることだけが子育てと思いこんでいるのです。

 世話を受ける,世話をする,そんな関係に親子関係を縮小しているから,世話が要らなくなると同時に,親子関係は意味を失っていきます。子育てという言葉のイメージは,子どもが相手です。自分の世話ができるようになれば,子どもではなくなります。そして子育ては切り上げられてしまいました。もともとは,子育てとは我が子を一人前の大人にすることでした。子育ての子とは子どもではなくて我が子であり,いくつになっても親の子であるという子どものことなのです。

 子どもを産んで育てて,一人の人間として社会に送り出す責任が親にはあります。社会は子どものままで持ち込まれても困ります。社会の一員として自立するまでは,言葉は適当ではありませんが,製造物責任が問われているのです。食品でも製造者が誰かという保証書が求められる世の中になっています。

・・・親は社会人として我が子の連帯保証人です。・・・


 〇代わり?

 「仕事では代わりはいくらでもいます。でも,あなたには代わりはいないのよ」。朝のドラマの一シーンでヒロインに祖母が語りかけた言葉です。ドラマのオリジナルではなくて,きっと市井のどこかで誰かが言っている言葉でしょう。

 親業という言葉があります。どうもあまり好きにはなれません。親を業務と考えることは明らかに間違いだからです。親としての努めとか,役割といった言い方もあります。その言い回しに引きずられて,役割を果たしていれば親であるという短絡的な結論を何となく引き出してはいないでしょうか?

 親になるのは易しいが,親であることは難しいと言われています。親の役割をきちんと果たすことはそれほど難しくはありません。役割とはこれこれですと並べることができるからです。ですから,親になるのは易しいのです。では,親であるためには,役割以外に何をすればいいのでしょうか?

 例えば,仕事場で与えられた役割をちゃんとこなしていれば,つつがなく勤務を続けられるでしょう。ところで,何かのアクシデントで休むことがあるとしたら,担当していた役割は他の人が肩代わりをします。つまり,役割を果たすには,代わりは誰でも勤まるのです。役割とはもともとそういう普遍性を備えています。あなたでなくてもいいというわけです。

 親の役割にこだわると,あなたでなくても構わないということになります。子どもに自分の親はこの人しかいないと思われたとき,親であることができるのです。親として信頼されるということです。賢い親ばかになればいいのです。どうすればいいのでしょう?

 我が子のために何をしたかということです。例えば,夕食のおかずはお店で買ってきたパック詰めを皿に移しただけだとしたら,あなたでなくてもできますよね。もちろん,子どもは親らしいこととは感じません。あなたしか作れないもの,お袋の味とはそういうものです。袋の味では,親の役割を果たしていますが,親ではないのです。

 食事を店屋物ほど上手には作れないでしょう。それで構いません。我が家風でいいのです。親は子どもに美味しいものを食べさせる必要はありませんし,子どもも母の味で育つのですから,それほど気にはしないはずです。団らんという家族の至福の姿は,我が家風であるときに最も輝くものです。人を結びつける基本は,同じ釜の飯を食べることであることを再確認してください。親が親であることができたら,子どもはどんな育ちをするのでしょうか? 次にその点を考えてみましょう。

・・・自分の手塩に掛けて育ててこそ,親であるのです。・・・


 〇自尊心?

 我が子のために,それが親であるための心構えとお話ししましたが,少しばかり補足しておく必要がありました。賢い親ばかであれと,但し書きを入れておきましたが,お気づきでしたでしょうか? 溺愛すること,子どものためと強制することは,過ぎたるは及ばざるが如しで,逆効果です。もちろん,そんなことは言われるまでもないと思われていることでしょう。

 さて,親との間に余人に代え難いという絆ができると,もう一人の子どもは,「私は,このパパとママの子どもである」と思います。その確信が自尊心の核になります。ここで,自尊心の中身を紐解いておきましょう。正体が分からなければ,自尊心を育ててやることができないからです。

 自尊心を辞書を引くと,「自分という存在に誇りを持つこと」とあります。では,誇りとは? 「自分の置かれた立場にやましい点は一つもないと自信を抱く気持ち」と書いてあります。子育て風に翻訳しておきましょう。自分は親に望まれている存在(wanted child)であるという思いが安心をもたらしますが,その上にさらに,自分がこの親の子どもであることを喜びとするとき,自尊心が芽ばえるのです。

 もう少し説明をしておきましょう。日本人の学者が南米で遺跡の発掘をしていたときです。金の遺物が多量に出てきました。詳しく調べるために近くの大学に期間限定で持ち帰ろうとしたら,住民が持ち出しを拒否したのです。どのように返却の約束をしても承知してくれません。信用されないのです。切羽詰まってとうとう,その学者は「俺は侍の子だ」と叫びました。住民は近くの大学ではなくて,日本に持ち出すこと,それも無期限で許してくれました。

 ○○の子ども,子孫という系譜を持っていることが,信用されたのです。なにも系図や家系といった代物ではなくて,命の連鎖を心の拠り所にしている生き様,その誇り高さが人の信頼を呼び込んだのです。同じことは,老舗の信用,それを支える誇りから生まれる自尊心にも言えることです。

 父親は,かわいい娘をさらっていこうとする若い男性に対して,「どこの馬の骨と分からない奴」と言い放っています。表面的には家柄の良し悪しを思い起こさせますが,もっと深いところで,親から子どもに伝えられている誇りを気にしているのです。

 例え話は大げさですが,基本的な構造はイメージしていただけたはずです。「パパとママの子どもでよかった」,その誇りを受け継ぐことができたとき,子どもは自尊心を手に入れることができるのです。何も世間的に立派な親である必要はありません。信頼できる親でありさえすれば,それで十分なのです。では,信頼される親には,どうすればなれるのでしょうか? いよいよ,話は大詰めに向かいます。

・・・信頼されている親は子どもに誇りを伝授しています。・・・


 〇誇り高き親?

 信頼されるということを頼りがいがあるという風に言い換えるとしたら,大人である親はかなりの部分で子どもに頼られても大丈夫です。パパは何でも上手にできると,子どもは自慢しています。ママは私のことを何でもよく分かってくれている,不思議だなと感心しています。

 幼い子どもの信頼感は絶対的ですが,子どもが大きくなってくるにつれて,親への頼りがいは化けの皮が剥がれるように細くなっていきます。親にもできないことがあることを感づかれてしまうのです。でも,それでいいのです。子どもが成長して追いついてきているのですから。

 信頼される親になるには,親自身が誇りを持つことです。アレッ,さっき聞いた話? そうです。先ほどは命の連鎖という話までしておきましたが,その続きを考えてみましょう。人には生きる上で芯になるものが不可欠です。昔の人は,天に恥じないとか,お天道様の下とか,世間に顔向けならないことはしないとか,後ろ指を指されないとか,いろんな形で自分自身を律して生きていました。家訓といった具体的なきまりを設けていたこともあります。

 なにも昔風にすることはありませんが,親自身が何か守るべき信条を持つことが必要なのです。例えば,銀の道徳律と呼ばれている「人の嫌がることは絶対にしない」,そういったことで十分です。先人が守ってきた何らかの基準を受け継ぐ,それが命の連鎖です。その先に子どもがいるのです。四六時中意識しておく必要はありませんが,子どもを育てていると突然に親の信条を問われることが起こるものです。そんなときに右往左往しないために,ときどき,自分は何を支えとして生きているのか,確認をしておいてください。

 わがまま気まま,行き当たりばったり,状況に応じてコロコロ変わる,それでは信頼してもらえませんよね。ある程度の臨機応変は必要ですが,そればっかりではやはり,信頼されません。八方美人が信頼されにくいのも同じ理由です。人として守っているものを持っていないのです。例えば,どんなときでも,弱い者には決して手を挙げない,それは男としてのプライドでした。父親としての教育を怠ってきたせいで,男としての誇りを受け取り損ねた息子たちが,子どもやお年寄りに襲いかかっている始末です。

 大人としての心構えであり,ひとそれぞれに考えて決める問題ですから,これ以上の差し出口は控えます。誇りとは,自分の心に曇りがないという確信です。心が晴れていれば,堂々と生きることができます。小さいことを言えば,お巡りさんに出会っても平気でいられることです。スピードは控えめに!

 ところで,子どもと接するときに,信頼関係を生み出すような接し方があるはずです。一つの注意点をお話ししておきましょう。

・・・真っ当に生きる,それだけのことなのですが?・・・


 〇見守る?

 親は子どもを見守っている積もりです。でも,子どもは見張られていると感じるときがあります。参観の時のママの目は,どちらでしょうか? 意識して気をつけておかないと,ママの目は見張りの目になりたがっています。子どもの至らない点はすぐにいくつでも言えますよね。常日頃から,見張っているからです。

 見守りと見張りとはどう違うのでしょうか? 対象をどう思っているかという,見る際の前提が違っているのです。見守るのは味方です。一方で,見張るのは敵方です。この関係は,受ける方にも当てはまります。敵が見回していれば,見張っていると受け止めるのは自然です。見張り,見張られの間柄ということになります。

 親の思いは分かりようがないのに,それでも子どもが見張られていると察知するのはどうしてでしょう。日頃の親子の会話はどうでしょうか? 子どもが何かしくじったとき,「ダメじゃないの」と叱ってばかりいませんか? 自分のあら探しをしている目であることが一目瞭然です。子どもがいったんそう思いこんでしまうと,信頼の芽を自ら摘み取ってしまいます。どうせ私なんか信頼してもらってない,とふてくされるだけです。

 「大丈夫?」と,子どものことを気遣っていますか? それなら,普通です。その意味は,その程度のことであれば,通りがかりの他人でさえ言ってくれる言葉だということです。親らしい言葉掛けとは,「大丈夫,ママがついている」と受け止めることです。もちろん,ケースバイケースですが,いざというときはママがついているという言い方ができるようになってくださいね。それが味方の言葉です。

 子どもが何か不都合をしでかしたとき,「どうしてそんなことをしたの?」と責任追及をします。例えば,野球で守備のミスがあったとき,どうしてミスしたのかと真っ先に詰め寄るでしょうか? まず味方としてすることは,ミスをカバーすること,フォローすることです。取りあえず味方として引き受けてしまうことです。責める前に庇ってやることを優先していれば,味方としての信頼感が培われていくはずです。

 子どもが思い描いている親への信頼感とは,親らしいことをしてくれたかということで判定されます。不始末をいっしょに片づけてくれる,親だから,親しかできないことです。子どもは親がいっしょに泥を被ってくれると信じたいのです。守るというのは,そこまでの覚悟が必要であり,それだからこそ,親とはありがたい存在になるのです。ママ自身,そういう親に守られて育ってきたのではないですか?

・・・見守るとは,後顧の憂いを無くす後ろ盾になる信頼です。・・・



《信頼されるとは,親である誇りを持つことです。》

 ○信頼関係は親との間で生まれ,その広がりが他の人に及ぶとき,社会性が育っていきます。最近の若者には社会性が育っていないと指摘されていますが,テクニックはさておき,人を信じる目が親から受け継がれていないところに根っこがあります。人を信頼しようとしないのも,闇雲に信頼してしまうのも,何をもって信頼に足るとするのか,そのモデルを持ち合わせていないからです。

 親身になることの重さを実感していないと,人に対する信頼関係を疎かにしても平気になります。社会人としての必須の項目が信頼関係ですから,社会をいい加減に渡ろうとして難破する羽目に陥ります。生きる性根の部分は親がしっかりと固めておいてやらなければ,先行きは危ういものになります。


 【チェック第4条:子どもに信頼されていますか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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