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「第 96-02 章」 |
『子育ちは 自分に似てる 人がいて』
■子育ち12視標■
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『子育ち第2視標』
【人間あり】
《まえがき(毎号掲載)》
子育て羅針盤では,こどもの育ちを6つの方向と2つの領域から考察します。6つの方向とは,「誰が,どこで,いつ,何が,なぜ,どのように育つのか」という問題視座です。また,2つの領域とは,「自分の育ち(私の育ち)」と「他者と関わる自分の育ち(私たちの育ち)という育ち」の領域を表します。6つの方向にそれぞれ2つの領域を重ねた12の論点が「子育て羅針盤」の基本的な考察の構成となります。
この第96版でも,これまでの流れに沿って,子ども自身や親が育ちの確認をしていくときに,見えて感じることができる視標という面から育ちを考えていきます。それぞれの完成度に違いがあってもそれは個性になり,一応の評価ができるようなら,幸せに育っているということができます。子どもの育ちは見えにくいものですが,羅針盤としての全方位を見届けることができることを再確認していただけたらと思っています。
《誰が育つのか(私たちの育ち)?》
「彼も人なり我も人なり」とは,韓愈による言葉で,彼も我も同じ人間なのだから,人のできることが自分にもできないはずはない,という意味で語られています。ここでは,原意から外れて,彼も我も同じ人間と考えることに留意します。もう一人の子どもが,母親離れをした後,父親と同じである自分,母親と同じである自分,家族と同じである自分,隣人と同じである自分に気付くことが,自分を含めた「私たちという社会的自我」の誕生になります。その自覚ができたときに,人間という「人の間」を意識して他者に向き合う自分の位置づけが確立します。
社会生活に必須の気配りは,相手の思いを慮ることですが,それは自分だったらという思いを相手の立場に転送することです。同じ人間という意識を持っていなければできないことです。思いやりという言葉は,思いをやることです。この思いやりの育ちが中途半端になると,自分の思いを押しつけてしまって,相手が分かってくれないことを恨むようになります。自分の望ましい思いは,相手にやろうとしても,無理です。向きが反転することを弁えて,人との関係が真っ当になることをしつけてやりましょう。
人の振り見て我が振り直せ,という言葉があります。人がしている振りを見て,それは自分もすることであると思うから,学ぶことができます。人のしくじりを笑っているようでは,学びはできません。もちろん始めに述べたように,人ができることは自分もできると,努力をする意欲が育ちを促すことになります。一人一人の個性を大事にするという傾向を誤解していると,自分は皆とは違うという錯覚にとらわれて,もう一人の子どもが自分を見失うことになります。人として同じである意識は,身につけておくべきものです。
人と同じであると思っていると,子どもはモノをねだるときに「皆持っている」という言い方をしてきます。「よそはよそ,うちはうち」と拒否することもあるでしょう。人として同じであるということと,持ち物が同じであることは無関係です。持たないと持っている者をうらやむ気持ちが出てくるでしょう。不公平だと考えるのではなく,それぞれに持つモノが違っているだけだと思えばいいのです。
★落書き★
レストランで出るローストチキンは,根元の部分が銀紙で巻いてあります。リボンまで結んであることもあります。どんな食べ方をすればいいのでしょう。銀紙部分を持ってかぶりつく方法もありますが,それはあくまでもホームパーティなどカジュアルな席で許されることで,本来のマナーでは銀紙を付けたままナイフとフォークで食べます。銀紙は手で持つためではなく,もともとは足首の切断骨を隠すためのもので,調理跡を見せない配慮なのです。
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