*****《中学生とその親の関係の推移》*****

【ま と め】

 最近の子どもたちが見せる醜態は,大人の目に解読不能な現象として突きつけられています。何を考えているのか,何を求めているのか,何のためにしているのかといった問に,大人に分かるような答を返してくれていません。分からないことが不安を生み出し,不気味さだけが脹らんできます。まるで突然変異した人間が現れたような印象を語る評論も見えます。社会の趨勢がもたらした鬼っ子として,精神鑑定という目でその異常さを括ろうとする動きに進み,状況判断を終焉しようとしているようです。
 異常だから仕方がないと切り捨ててしまっては,禍根を残すことになります。どうして子どもたちをそこまで追いつめたのかを見極める責任が大人にはあるはずです。その一つの試みが本稿です。子どもを導いてきたはずの子育てが十分に機能していなかったという反省は,これまでの子育てを振り返って考え直すことに向かわなければなりません。大人はこれまで子どもにどう向き合ってきたかという問いかけです。過去の足跡に刻まれた変化を再検証します。

●親自身は,どのように変わって来たのでしょうか?

 生きがいとして子どもをあげる父親は減少し続けています。それなら仕事人間になっているのかというとそうではなく,仕事が生きがいという父親も減っています。生きがいは趣味等か,もしくは持てなくなっています。父親自身が何のために生きていくかという目的を喪失しつつあると言えます。子どもに見せる背中に生き方が込められていません。なんとなく自分の世界に漂っている不安定な後ろ姿です。子どもには尊敬できる背中ではなくなっています。母親についても,状況は同じです。母親は夫を生きがいとしなくなっているという傾向さえ現れています。
 親子や夫婦が共に生きるという絆によってこそ,生き方に人間としての核がはめ込まれるはずです。親世代の世界観が家族という広がりを持たず,自分だけの世界に収縮しつつあるようです。家族ですらなるべく外の世界に排除しようとしています。家族がいなかったらどんなにいいだろうと思ってしまうことでしょう。お互いがお荷物状態です。肉親ですらうっとうしく感じ始めたら,人は人間としての大事な情愛を持てなくなります。

●子育ては,どのように変わってきたのでしょうか?

 親は変わったとしても,それでも現実には家族はいて,子どもがいます。子どもを育てなければならないという責任が保護者という鎧を着せかけてきます。責任とは契約関係において想定される義務です。すなわち,子育ては親としての義務,保護者としての責任になります。その責任は子どもを食べさせ学校に遅れないように起こし世話をすれば果たせます。することをしさえすればいいという責任感です。子どもにとっての家庭生活は煩わしいことが消えて満足できるものになっています。しかし,構ってくれる一方で,親としての情は冷めきっていることを感じ取って,心虚しさをかこっているはずです。何の悩みもないという子どもの声は,生活から浮遊させられた無為と背中合わせに過ぎません。
 情を失ったクールな親子関係は,親業という言葉が現れたように専門職意識を生み出しました。となると,あるはずもないその正式な訓練を受けていないというハンディキャップが,子育ての自信を浸食していきます。子育てとは親の生き方を情を通じて植え付ける営みですから,子育ての本道が封鎖されてしまったら,自信が湧くはずもありません。子育てが親業にバイパス化していると言えます。
 親業という責任は,親を指導者に変えてしまいます。子どもが親を指導してくれる人と思い始めていることが何よりの証拠です。親は子どもの自主性や忍耐力を高く評価して,殴りたいと思うことも全くないという傾向が進んでいますが,これはまさに第三者的な指導者としての態度です。子どもに対する悩みも成績が減って,特にないが増えています。そこには子どもは子どもという突き放した関係が感じ取られます。

●指導意識は,親をどのように変えていったのでしょうか?

 指導者はきちんと指導しなければならないという義務を負います。話を幼児を育てる場面に広げると,その義務感が親を,ことに母親を精神的に押しつぶします。思い通りに育てようとしますが,その性急さが子どもの育ちと乖離していきます。やがてうまく指導ができない原因を子どもに負わせて,責めて虐待行為に進展していきます。親子関係にとって危険な道に迷い込む責任意識を払拭するためには,親の復興が急務です。
 最も今注目されている社会性の養育はどうなるのでしょうか。それは学校という教育機関が負うべきものという責任分担を指導的な親は想定しています。例えば校則による社会性へのしつけに委託されてしまいます。親の責任分野ではないと消極的拒否態度を示しています。指導するという専門意識は領分を設定し閉じこもりに向かいます。学校・家庭・地域の連携という言葉を自己責任の領域分けと捉え,排他的に考えようとする傾向が進みます。さらに地域社会は今や誰も責任関与しない放置状態です。それを敏感に感じ取っている子どもは,上手に棲み分けをしています。学校の自分,家庭の自分を演じ分けています。唯一演じる必要のない地域社会で本性を現そうとするために,さまざまな問題行動を露呈しています。親がしつけるべき本性が手つかずのままだからです。

●親は,これからどうすればいいのでしょうか?

 子どもの性根に人間らしさをはめ込む道は,親の情愛に満ちた関係だけです。男女の情愛によって夫婦が誕生し,親子の情愛によって人間が誕生します。親が子どもの前から親としての姿を隠したら,子どもはどうして人間になれるでしょうか。自分を我が子として見つめてくれなくなった親に,子どもは自分という存在を否定されたように感じます。アイデンティティというものは,存在感の自覚です。それは自分の思いこみによるものではなく,明確な確証を必要とします。それは親子の情愛以外にはあり得ません。子どもは育てなければならない荷物的存在ではなくて,慈しみ育て共に生きていく人生の同士なのです。

 大人の生き方が子どもを脇に追いやるような選択をしつつあるということが,得られた結論です。自分の人生という生き方が,子どもの育ちの場を荒れ地に変えています。快適なエアコンディションの整った部屋に住もうとするとき,ムッとする排ガスの世界に子どもを置き去りにしているようなものです。子育ての技術やノウハウといった浅い問題ではなくて,子どもという存在をどう自分の生き方に関わらせていくかという根元が揺らいでいます。子どもには豊かさという砂漠に放り出されて,不安がいっぱいなのでしょう。親というオアシスを家庭に作らない限り,事態は好転することはありません。親業より,親そのものを再認識する必要があります。そのためには閉じた気持ちを家族に向けて開こうとすることから始めるべきでしょう。

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