1180年(治承四年、庚子)
 
 

7月5日 乙卯 天霽、風静まる
  昨日御書を遣わし、走湯山の住侶文陽房覚淵を召さる。今日北條の御亭に参向す。武
  衛件の龍象に談り仰せられて云く、吾心底に挟むこと有り。而るに法華経を読誦せし
  め、一千部の功を終えて後、宜しくその中丹を顕わすべきの由、兼日素願有りと雖も、
  縡すでに火急の間、殆ど後日に延及し難し。仍って転読分八百部、故に仏陀に啓白せ
  んと欲す如何てえり。[覚淵申して云く、一千部に満たざると雖も、啓白せらるるの
  條、冥慮に背くべからずてえり。]則ち香花を仏前に供え、その旨趣を啓白す。先ず
  表白を唱えて云く、君は、忝なくも八幡大菩薩の氏人、法華八軸の持者なり。八幡太
  郎の遺跡を稟け、旧の如く東八ヶ国の勇士を相従え、八逆の凶徒八條入道相国一族を
  退治せしめ給うの條掌裡に有り。これ併しながらこの経八百部読誦の加護に依るべし
  と。武衛殊に感嘆欽仰し給う。事訖わり施物を賜う。判官邦道これを取る。晩に及び
  導師退出す。門外に至るの程、更にこれを召し返し、世上無為の時、蛭島に於いては
  今日の布施たるべきの由、覚淵に仰す。頻りに喜悦の気有り、退去すと。
 

7月10日 庚申
  籐九郎盛長申して云く、厳命に従うの趣、先ず相模の国内進奉の輩これ多し。而るに
  波多野右馬の允義常・山内首藤瀧口の三郎経俊等は、曽って以て恩喚に応ぜず。剰え
  條々の過言を吐くと。
 

7月23日 癸酉
  佐伯の昌助と云う者有り。これ筑前の国住吉社の神官なり。去年五月三日伊豆の国に
  配流す。是より先同祠官昌守、治承二年正月三日当国に配すと。而るに彼の昌助弟住
  吉小大夫昌長、初めて武衛に参る。また永江蔵人大中臣頼隆同じく初参す。これ太神
  宮祠官の後胤なり。近年波多野右馬の允義常が許に在り。近日主人に向背する事有り、
  参上すと。この両人は源家の奉為、兼日陰徳を顕わすの上、各々神職に募るの間、御
  祈祷の事を仰せられんが為、門下の祇侯を聴さしめ給うと。