6月2日 癸未 天晴 [玉葉]
卯の刻、入道相国福原の別業に行幸す。法皇・上皇同じく以て渡御す。城外の行宮、
往古その例有りと雖も、延暦以降、都てこの儀無し。誠に希代の勝事と謂うべきか。
敢えて由緒を知るの人無し。(中略)或る説、遷都有るべしと。
[愚管抄]
忽ちに都うつりと云う事行いて、都を福原へ遷て行幸なして、とかく云うばかりなき
事どもになりにけり。
6月5日 丙戌 天晴 [玉葉]
伝聞、南都の大衆二途を成しをはんぬと。定めて和平か。民の慶びなり。
6月7日 戊子 天晴 [玉葉]
興福寺の衆徒和平しをはんぬ。逃げ籠もる所の者等、上下相併せ二十余人、仰せに随
い早く召し進すべきの由申せしむと。また院の雑色の本鳥を切り、並びに有官別当を
凌礫し、及び長者の宣を破るの輩、同じく以て搦め出しをはんぬ。早く進すべしと。
然れども近日、禅府遷都の外、他の沙汰に及ばずと。
6月11日 壬辰 天晴、晩に及び小雷 [玉葉]
女院の御方に参る。伝聞、遷都の事、大略一定たりと雖も、下官の参入を待たるると。
この事敢えて定め申すべきの趣無し。ただ形勢に随うべきなり。万人此の如し。
6月19日 庚子
散位康信が使者北條に参着するなり。武衛閑所に於いて対面し給う。使者申して云く、
去る月二十六日、高倉宮御事有るの後、彼の令旨を請けるの源氏等、皆以て追討せら
るべきの旨、その沙汰有り。君は正統なり。殊に怖畏有るべきか。早く奥州方に遁れ
給うべきの由存ずる所なりてえり。この康信母は、武衛の乳母妹なり。彼の好に依っ
て、その志偏に源家に有り。山河を凌ぎ、毎月三箇度(一旬各一度)使者を進し、洛
中の子細を申す。而るに今源氏を追討せらるべき由の事、殊なる重事たるに依って、
弟康清(所労と称し出仕を止む)を相語らい、着進する所なりと。
6月22日 癸卯
康清帰洛す。武衛委細の御書を遣わし、康信が功を感じ仰せらる。大和判官代邦道右
筆す。また御筆並びに御判を加えらると。
[玉葉]
三井寺の僧徒罪科の趣、宣旨を下されをはんぬ。その状此の如し。
園城寺の悪僧等、朝家に違背し、忽ち謀反を企つ。仍って門徒・僧綱已下、皆悉く
公請を停止し、見任並びに綱位を解却す。また末寺庄園、及び彼の寺僧の私領は、
諸国の宰吏に仰せ、早々収公す。但し有限の寺用に於いては、国司の沙汰として、
直に直家に付け、所司その間の用途を経て、退転せしむ莫れ。
治承四年六月二十日
また無品圓恵法親王、宜しく天王寺検校職を停止せしむべしと。
6月24日 乙巳
入道源三位敗北の後、国々の源氏を追討せらるべきの條、康信が申状、浮言に処せら
れべからざるの間、遮って平氏追討の壽策を廻さんと欲す。仍って御書を遣わし、累
代の御家人等を招かる。籐九郎盛長御使いたり。また小中太光家を相副えらると。
6月27日 戊申
三浦の次郎義澄(義明二男)・千葉の六郎大夫胤頼(常胤六男)等北條に参向す。日
来京都に祇侯す。去る月中旬の比、下向せんと欲するの刻、宇治合戦等の事に依って、
官兵の為抑留せらるの間、今に遅引す。数月の恐鬱を散ぜんが為参入するの由これを
申す。日来番役に依って在京する所なり。武衛件の両人に対面し給う。御閑談刻を移
す。他人これを聞かず。