1180年(治承四年、庚子)
 
 

*[平家物語]
  元三のあひだ年去来ども、鳥羽殿へは事とひ参る人もなし。とぢこめられ給ひけるぞ
  かなしき、とう中納言なりのり卿、左京大夫修範兄弟二人ゆるされて参られける。
 

1月20日 癸酉 [玉葉]
  この日皇太子魚味・着袴等の事有り。三歳の着袴吉例たるの上、来月譲位の事有るべ
  きに依って、急ぎ行わるる所なり。

[平家物語]
  とう宮の御袴着、御魚味聞し召べきなど、花やかなる事ども世間にはのゝしりけれど
  も、法皇は耳のよそに聞召ぞあはれなる。
 
 

2月21日 癸卯 天陰雨下る [玉葉]
  この日譲位の事有り(御歳三歳)。応徳三年の例を以てこれを行わる(旧主宮閑院第、
  新主宮五條東の洞院)。幼主の礼、同居の儀、保安・永治共に以て快からず。各別の
  御所、長和・応徳すでに吉例たり。仍って強いて各別の儀有りたり。
 
 

3月16日 戊辰 天晴 [玉葉]
  秉燭に、院の蔵人御使いとして、金泥の御経三巻(壽量品一巻・心経一巻、已上院の
  御筆、また心経一巻、中宮の御筆なり)を持ち来る。伝え仰せに云く、明日厳島に御
  幸有るべし。彼の社に於いて供養せらるべき御経なり。手づから外題を書き進すべし
  てえり。即ち筆を下し御使いに付け進しをはんぬ。戌の刻、人伝えて云く、明日の御
  幸延引しをはんぬ。山の大衆蜂起(何事かを知らず)するの間、忽然として延引す。
  只今前の大将の許より、禅門の許に示すと。武士等路中に充満すと。
 

3月17日 己巳 陰晴定まらず、時々小雨 [玉葉]
  夜に入り、蔵人左衛門権の佐光長来たり語りて云く、御幸延引の事、園城寺の大衆発
  起し延暦寺及び南都の衆徒を相語らい、法皇及び上皇宮に参り、両主を盗み出し奉る
  べきの由、去る八日評議を成す。その事前の幕下の辺に達するより、頗る用心を致す
  の間、彼の日は黙止す。今に於いては御幸の間を伺うべきてえり。猶以て結構、事す
  でに一定す。證人等有り。茲に因って去る夜検非違使季貞を以て摂州に馳せ遣わしを
  はんぬ。彼の申状に随い来二十一日御進発有るべしと。大理また云く、この事法皇自
  ら前の幕下の許に仰せ遣わせらる。仍って実説たりとてえり。この事偏に天狗の所為
  なり。
 

3月18日 庚午 天晴 [玉葉]
  人伝えて云く、摂州の使い季貞、昨日帰洛す。御幸猶明暁と。また法皇鳥羽より五條
  大宮の辺の家(為行が家と)に渡御す。武士等多く囲繞し奉ると。或いは云く、衆徒
  の事を恐れるに依って、洛中に移し奉り、一所に於いて守護すべし。
 

3月19日 辛未 終日降雨 [玉葉]
  今暁上皇御進発しをはんぬ。法皇去る夜五條大宮為行が家に渡御せんと欲するの間、
  六條壬生の辺(誰人の宅を知らず)に鋪設を設け、御装束を装う。法皇その子細を知
  ろし食さず。四墓の辺に到り給うの間、前の将軍使者を献り、日次宜しからず後日渡
  御すべきの状を申す。仍って忽ち以て鳥羽に還御す。次第奇異の事か。今一両日の間、
  猶五條大宮に渡御すべしと。
 

3月27日 [平家物語(17日と有るが間違いか)]
  [厳島]御つきあり。御願書を神殿にこめさせおはします。七日御参籠ありて、澄憲
  僧都を召具せられたりければ、御結願の日一座の説法あり。日数事終りて還御なる。