1180年(治承四年、庚子)
 
 

4月7日 [平家物語]
  福原につかせ給ふ。太政入道まうけ参らせらる。儀式一期の大栄、今じやうの思出と
  見えたり。平家一門公卿殿上人くびすをつぎ、蔵人青侍御船のつなをひく。新院くが
  にあがらせ給へば、入道御手をひき参らせ給ふ。
 

4月9日 辛卯
  入道源三位頼政卿、平相国禅門(清盛)を討滅すべき由、日者用意の事有り。然れど
  も私の計略を以て、太だ宿意を遂げ難きに依って、今日[夜に入り、子息伊豆の守仲
  綱等を相具し、密かに一院第二宮の]三條高倉の御所に参る。前の右兵衛の佐頼朝已
  下の源氏等を催し、彼の氏族を討ち、天下を執らしめ給うべきの由これを申し行う。
  仍って散位宗信に仰せ、令旨を下さる。而るに陸奥の十郎義盛(廷尉為義末子)折節
  在京するの間、この令旨を帯し東国に向かう。先ず前の兵衛の佐に相触るの後、その
  外の源氏等に伝うべきの趣、仰せ含めらるる所なり。義盛八條院の蔵人に補す(名字
  を行家と改む)。

[玉葉]
  今日、新院厳島より入洛し給う。夜に入ると。
 

4月22日 甲辰 天晴 [玉葉]
  この日天皇(春秋三歳)紫宸殿に即位す。大極殿火災以後、未だ企て出来ざるが故な
  り。


4月27日 壬申
  高倉宮の令旨、今日前の武衛将軍伊豆の国北條館に到着す。八條院の蔵人行家持ち来
  たる所なり。武衛水干を装束し、先ず男山の方を遙拝し奉るの後、謹んでこれを披閲
  せしめ給う。侍中は、甲斐・信濃両国の源氏等に相触れんが為、則ち首途すと。武衛
  は前の右衛門の督信頼(平治の乱)が縁坐として、去る永暦元年三月十一日、当国に
  配すの後、歎きて二十年の春秋を送り、愁えて四八余の星霜を積むなり。而るに項年
  の間、平相国禅閤恣に天下を管領す。近臣を刑罰し、剰え仙洞を鳥羽の離宮に遷し奉
  る。上皇の御憤り、頻りに叡慮を悩ませ御う。この時に当たり、令旨到来す。仍って
  義兵を挙げんと欲す。寔にこれ天の與うるを取り、時至りて行うを謂うか。
  爰に上野の介平の直方朝臣五代の孫、北條の四郎時政主は当国の豪傑なり。武衛を以
  て聟君と為し、専ら無二の忠節を顕わす。茲に因って、最前に彼の主を招き、令旨を
  披かしめ給う。
   下す 東海・東山・北陸三道諸国の源氏並びに群兵等の所
     早く清盛法師並びに従類叛逆の輩を追討すべき事
   右前の伊豆守正五位下源の朝臣仲綱宣べ、最勝親王の勅を奉って称く、清盛法師並
   びに宗盛等、威勢を以て[帝王を蔑し]、凶徒を起こし国家を亡ぼす。百官万民を
   悩乱し、五幾七道を虜掠す。皇院を幽閉し、公臣を流罪す。命を断ち身を流し、淵
   に沈め楼に込む。財を盗み國を領し、官を奪い職を授く。功無くして[恣に]賞を
   許し、罪非ずして[猥り]に過に配す。[これに依って巫女宮室に留まらず、忠臣
   仙洞に仕えず。]或いは諸寺の高僧を召し誡め、修学の僧徒を禁獄す。或いは叡岳
   の絹米を給下し、謀叛の粮米に相具し、百皇の跡を断つ。抑も一人の頭、帝皇を違
   逆し、佛法を破滅す。[その振る舞いを見るに誠に]古代を絶する者なり。時に天
   地悉く悲しみ、臣民皆愁う。仍って吾は一院第二の皇子たり。天武皇帝の旧儀を尋
   ね、王位推取の輩を追討し、上宮太子の古跡を訪い、仏法破滅の類を打ち亡ぼさん。
   ただ人力の構えを憑むに非ず。偏に天道の扶けを仰ぐ所なり。これに因って、帝王
   三宝神明の冥感有るが如し。何ぞ忽ち四岳合力の志無からん。然れば則ち源家の人、
   籐氏の人、兼ねて三道諸国の間、勇士に堪うる者、同じく輿力せしめ、清盛法師並
   びに従類を追討すべし。もし同心せざるに於いては、配流追禁の罪過に行うべし。
   もし勝功有るに於いては、先ず諸国の使に預かり、兼ねて御即位の後、必ず乞いに
   随い勧賞を賜うべきなり。諸国宜しく承知すべし。宣に依ってこれを行う。
     治承四年四月九日       前の伊豆守正五位下源の朝臣
 

*[愚管抄]
  光能卿、院の御気色を見て、文覺とて余りに高雄の事すすめすごして伊豆に流された
  る上人ありき。それして云いやりたる旨も有りけるとかや。但しこれ僻事なり。文覺、
  上覺・千覺とて具してある聖流されたりける中、四年同じ伊豆の国にて朝夕に頼朝に
  なれたりける。その文覺賢しき事共を仰せも無けれども、上下の御事の内を探りつつ
  云いいられけるなり。