8月1日 乙巳 天陰 [玉葉]
伝聞、前の幕下、その勢逐日減少す。諸国の武士等、敢えて参洛せず。近日貴賤の領
を奪い、勇武の輩に賜う。先々に万倍す。然れども、その郎従等忿怨に随い、或いは
違背の者有り。凡そその心を得ず。恐運報傾かと。また聞く、去る比、頼朝密々院に
奏して云く、全く謀叛の心無し。偏に君の御敵を伐たんが為なり。而るにもし猶平家
滅亡せられざれば、古昔の如く源氏・平氏相並び召し仕うべきなり。関東源氏の進士
と為し、海西平氏の任意と為す。共に国宰に於いては、上より補さるべし。ただ東西
の乱を鎮めんが為、両氏に仰せ付けられて、暫く御試有るべきなり。且つは両氏王化
を守らば、誰か君命を恐れんや。尤も両人の翔を御覧すべきなりと。この状を以て、
内々前の幕下に仰せらる。幕下申して云く、この儀尤も然るべし。但し故禅門閉眼の
刻、遺言に云く、我が子孫、一人の生残者と雖も、骸を頼朝の前に曝すべしと。然れ
ば、亡父の誡め用いざるべからず。仍ってこの條に於いては、勅命たりと雖も、請け
申し難きものなりと。この事最も秘事なり。人以て知らずと。以上の事等、兵部少輔
尹明密語する所なり。
8月2日 丙午 天晴 [玉葉]
伝聞、駿河の国より上洛の下人(大膳大夫信兼の郎従、即ち件の人、知行の庄沙汰者
と)の説に云く、頼朝朝臣の儲けと称し仮屋数宇を造作す。凡そ路次の国、粮米経営
の外、他事無しと。
8月6日 庚戌 早旦甚雨、終日陰 [玉葉]
関東の賊徒猶未だ追討に及ばず。余勢強大の故なり。京都の官兵を以て、輙く攻め落
とし難きか。仍って陸奥の住人秀平を以て、彼の国の史判に任ぜらるべきの由、前の
大将申し行う所なり。件の国、素より大略虜掠す。然れば、拝任何事か有らんや。ま
た越後の国の住人平助成、宣旨に依って信濃の国に向かう。勢少なきに依って軍敗れ
てえり。
8月8日 壬子 天晴 [玉葉]
伝聞、能登の国、如法反きをはんぬ。国司の郎従、頸を斧られをはんぬと。
8月12日 丙辰 天晴 [玉葉]
伝聞、足利の俊綱頼朝に背くの聞こえ有り。また秀平官軍に與力の心有りと。茲に因
って、京中の武士、昨今の間、聊か雄を称すの気有ると。頼朝、秀平の聟たるの條謬
説と。また聞く。頼朝甲斐保田の三郎義貞を伐ちをはんぬ。異心の聞こえ有るが故と。
8月13日 丁巳
藤原秀衡、武衛を追討せしむべきなり。平資永、木曽義仲を追討すべきの由宣下す。
これ平氏の申し行うに依ってなり。
8月15日 己未
鶴岡若宮遷宮。武衛参り給うと。今日平氏但馬の守経正朝臣、木曽の冠者を追討せん
が為、北陸道に進発すと。
[玉葉]
去る夜、除目有り。隆職これを注進す。
陸奥の守藤原秀衡
越前の守平親房
越後の守平助職
この事、先日議定有る事なり。天下の恥、何事かこれに如かずや。悲しむべし。大略、
大将等計略を尽くしをはんぬか。この中、親房の事心得ず。通盛国司として下向す。
忽ち他人を任ぜらる。如何々々。
[吉記]
朝間、前の大将より示し送らるる事有り。秀衡・助職等の事なり。相次いで院宣到来
す。子細同前。
太政官謹奏、
陸奥国 守従五位下藤原朝臣秀衡
越前国 守従五位下平朝臣親房
越後国 守従五位下平朝臣助職
養和元年八月十五日
親房は、基親息、前の近江の守なり。秀衡・助職の事人以て嗟歎す。
今朝、北陸道追討使但馬の守経正朝臣進発す。郎従五百騎ばかりを率すと。
8月16日 庚申
中宮の亮通盛朝臣、木曽の冠者を追討せんが為、また北陸道に赴く。伊勢の守清綱・
上総の介忠清・館の太郎貞保、東国に発向す。武衛を襲わんが為なり。
[吉記]
今朝中宮の亮通盛朝臣北陸道の追討使として進発す。駒牽無し。信乃の国逆徒の為掠
領せらるが故なり。
8月23日 丁卯 天晴 [吉記]
伝聞、伊豫の国の在廰川名大夫通清誅伐せらると。
8月26日 庚午
散位康信入道、また飛脚を進し申して云く、今月一日福原より帰洛す。而るに去る十
六日、官軍等東方を差し発向す。尤も用意を廻らさるべきかと。
8月27日 辛未
渋谷庄司重国次男高重、無二の忠節を竭すの上、心操せの穏便を感ぜしめ給うに依っ
て、彼の当知行渋谷下郷所済の乃貢等、免除せらるる所なり。
8月29日 癸酉
御願成就の為、若宮並びに近国の寺社に於いて、大般若・仁王経等を転読せしむべき
の旨仰せ下さる。この内長日の御祈祷を致せしむべきの所々これ在り。鶴岡宮に於い
ては、兼日その式を定めらる。伊豆・筥根両山に至りては、今これを仰せらる。注文
は各々一紙彼の山に送り遣わさると。昌寛これを奉行す。
御祈祷次第の事
毎月朔 大般若経一部 衆三十人
毎月朔 仁王講百座 衆十二人
長日 観音品 衆百人。毎日一人宛
四季 曼茶羅供 衆四人
右御祈祷注文件の如し
治承五年八月晦日