7月1日 乙亥 陰晴不定 [玉葉]
兼光相語りて云く、越後の国の勇士(城の太郎助永弟助職、国人白川御館と号すと)、
信濃の国を追討(故禅門・前の幕下等の命に依ってなり)せんと欲し、六月十三四両
日、国中に入ると雖も、敢えて相防ぐの者無し。殆ど降を請うの輩多し。僅かに城等
に引き籠もる者に於いては、攻め落とすに煩い無し。仍って各々勝ちに乗るの思いを
成し、猶散在の城等を襲い攻めんと欲するの間、信乃の源氏等、三手(キソ党一手・
サコ党一手、甲斐の国武田の党一手)に分ち、俄に時を作り攻め襲うの間、険阻に疲
れるの旅軍等、一矢を射るに及ばず、散々敗乱しをはんぬ。大将軍助職、両三所疵を
被る。甲冑を脱ぎ弓箭を棄て、僅かに三百余人(元の勢万余騎)を相率い、本国に逃
げ脱がれをはんぬ。残る九千余人、或いは伐ち取られ、或いは険阻より落ち、終命す。
或いは山林に交り跡を暗ます。凡そ再び戦うべきの力無しと。然る間、本国の在廰官
人已下、宿意を遂げんが為助元を凌礫せんと欲するの間、藍津の城に引き籠らんと欲
するの処、秀平郎従を遣わし押領せんと欲す。仍って佐渡の国に逃げ去りをはんぬ。
その時相伴う所纔かに四五十人と。この事、前の治部卿光隆卿(越後の国を知行の人
なり)、今日慥な説と称し院に於いて相語る所なりと。
7月3日 丁丑
若宮営作の事その沙汰有り。而るに鎌倉中に於いて然るべきの工匠無し。仍って武蔵
の国浅草の大工字郷司を召し進すべきの旨、御書を彼の所の沙汰人等の中に下さる。
昌寛これを奉行す。
7月5日 己卯
長尾の新六定景厚免を蒙る。これ去年石橋合戦の時、佐奈田の余一義忠を討つの間、
武衛殊に奇怪に処せられ、義忠が父岡崎の四郎義實に賜う。義實元より慈悲を専らに
する者なり。仍って梟首に能わず。ただ囚人として日を送るの処、定景法華経を持せ
しめ、毎日転読し敢えて怠らず。而るに義實去る夜夢の告げ有りと称し、武衛に申し
て云く、定景愚息の敵たるの間、誅戮を加えざれば鬱陶を散じ難しと雖も、法華持者
として、読誦の声を聞く毎に、怨念漸く尽く。もしこれを誅せられば還って義忠の冥
途の讎たるべきか。これを申し宥めんと欲すてえり。仰せに云く、義實が鬱を休めん
が為下し賜いをはんぬ。法華経を読み奉るの條尤も同心なり。早く請いに依るべして
えり。則ち免許すと。
7月8日 壬午
浅草の大工参上するの間、若宮営作を始めらる。先ず神躰を仮殿に遷し奉る。武衛参
り給う。相模の国大庭御厨寺一古娘、召しに依って参上し、遷宮の事を奉行す。また
輔通・景能等これを沙汰す。来月十五日、正殿に遷宮有るべし。その以前に造畢すべ
きの由と。
7月14日 戊子
改元。治承五年を改め養和元年と為す。
[玉葉]
この日、改元の事有り(養和、敦周撰び申すと)。
7月17日 辛卯 天晴 [玉葉]
或る人云く、越中・加賀等の国人等、東国に同意す。漸く越前に及ぶと。
7月18日 壬辰 天晴 [玉葉]
伝聞、通盛朝臣、北陸道に下向すべし。他の追討使、只今その沙汰無しと。
7月20日 甲午
鶴岡若宮の宝殿上棟。社頭の東方に仮屋を構え、武衛着御す。御家人等その南北に候
す。工匠御馬を賜う。而るに大工の馬を引くべきの旨、源九郎主に仰せらるるの処、
折節下手を引くべき者無きの由これを申さる。重ねて仰せに云く、畠山の次郎、次い
で佐貫の四郎等候すの上は、何ぞその仁無きの由を申されんや。これ併しながら所役
卑下の由を存じ、事を左右に寄せ難渋せらるかてえり。九郎主頗る恐怖し、則ち座を
起ち両疋を引く。初め下手畠山の次郎重忠、後佐貫の四郎廣綱なり。この外土肥の次
郎實平・工藤庄司景光・新田の四郎忠常・佐野の太郎忠家・宇佐美の平次實政等これ
を引く。申の刻に事終わり、武衛退出せしめ給う。爰に未だ見ざるの男一人、供奉人
に相交り、頻りに御後に進行す。その長七尺余、頗る直なる者に非ず。武衛これを覧
て、聊か御思慮、立ち留らしめ給う。未だ御詞を出されざるの前、下河邊庄司行平件
の男を虜えをはんぬ。還御の後、庭中に召し出す。曳柿の直垂の下に腹巻を着し髻に
札を付す。安房の国故長佐の六郎郎等左中太常澄の由これを注す。事の躰奇特と謂う
べし。事の由を推問せらるるの処、是非の陳謝に能わず。ただ斬罪せらるべしと称す。
行平云く、梟首せらるべきの條勿論なり。但しその意趣を知ろし食さざれば、汝の為
拠無し。早くこれを申すべしてえり。時に常澄云く、去年の冬、安房の国に於いて、
主人誅罰を蒙るの間、従類悉く以て牢籠す。覚めても寝てもその欝陶を休み難きの間、
宿意を果たさんが為、この程御亭の辺に佇立す。また死骸を曝すの時、姓字を人に知
らしめんが為、髻に簡を付すと。仰せに云く、子細に及ばず早く誅すべし。但し今日
は宮の上棟なり。明日たるべしてえり。梶原平三景時に召し預けられをはんぬ。次い
で行平を召し仰せて云く、今日の儀尤も神妙なり。この賞に募り所望の一事、直に達
せしむべしてえり。行平申して云く、指せる所望に非ずと雖も、毎年貢馬を進す事、
土民極めて愁い申す事なりと。仰せに云く、勲功の賞を行う時庶幾すべきは官禄の両
途なり。今の申状この興たりと雖も、早く請いに依るべしてえり。仍って御前に於い
て御下文を成し給う。成尋これを奉行す。
下す 下総の国御厩別当の所
早く貢馬を免除すべき事、行平所知の貢馬
右件の行平所知の貢馬は、免除せしめをはんぬ。仍って御厩別当、宜しく承知すべ
し違失すること勿れ。故に下す。
7月21日 乙未
和田の太郎義盛・梶原平三景時等仰せを奉り、昨日召し取らるの左中太を相具し固瀬
河に向かう。而るに追って遠藤武者を稲瀬河の辺に遣わし、仰せられて云く、景時は、
若宮造営の奉行なり。早く帰参せしむべし。天野の平内光家彼の替わりとして、義盛
相共に、沙汰を致すべしてえり。仍って光家これを相具す。中太云く、これ程の事、
兼ねて思い定められざるか、軽々しき殿かなと。遂に彼の河の辺に到りこれを梟首す。
雑色濱四郎時澤、別の御使いとしてこれを実検す。今夜武衛の御夢想に、或る僧御枕
上に参り、申して云く、左中太は、武衛先世の讎敵なり。而るに今造営の間露見すと。
覚めて後申されて云く、造営と謂うは、大菩薩を崇め重んじ奉る。宮寺上棟の日この
事有り。尤も信ずべしてえり。仍って時刻を改めず、御厩の御馬(奥駿と号す)を若
宮に奉らる。葛西の三郎御使いたりと。
[玉葉]
伝聞、播磨の国、また国司に乖くの者有りと。凡そ外の畿諸国、皆以て此の如しと。
7月22日 丙申 雨下る [玉葉]
人伝えて云く、越後の助職未だ死せず。勢また強ち滅せず。乃ち源氏等、掠領に似た
りと雖も、未だ入部せずと。
7月24日 戊戌 天晴 [玉葉]
人伝えて云く、能登・加賀等、皆東国に與力しをはんぬ。能登目代逃げ上ると。