1183年 (壽永二年 癸卯)
 (吾妻鏡に記載無し。平家物語・その他により記す)
 

6月4日 丁酉 [玉葉]
  伝聞、北陸の官軍悉く以て敗績す。今暁飛脚到来す。官兵の妻子等、悲しみ泣くこと
  極まり無しと。この事去る一日と。早速の風聞疑い有りと雖も、六波羅の気色事に損
  ずと。
 

6月5日 戊戌 [玉葉]
  前の飛騨の守有安来たり、官軍敗亡の子細を語る。四万余騎の勢、甲冑を帯びるの武
  士、僅かに四五騎ばかり、その外過半死傷す。その残り皆悉く物具を棄て山林に交る。
  大略その鋒を争う甲兵等、併しながら以て伐ち取られをはんぬと。盛俊・景家・忠経
  等(已上三人、彼の家第一の勇士等なり)、各々小帷ニ前ヲ結テ、本鳥ヲ引クタシて
  逃げ去る。希有に存命すと雖も、僕従一人も伴わずと。凡そ事の體直なる事に非ず。
  誠に天の攻めを蒙るか。敵軍纔に五千騎に及ばずと。彼の三人の郎等、尤も将軍等、
  権盛を相争うの間、この敗有りと。
 

6月6日 己亥 朝雨下る [吉記]
  未の刻ばかりに建礼門院に参る。北陸の事驚き存ずるの由、前の内府方に示し入る。
  朝の大事に依ってなり。延暦寺に於いて、千僧御読経を行わるべし。奉行すべきの由、
  左大弁これを談る。追討使の間の事、人々に仰せ合わさるべし。左府去夕参られ、今
  日書き進すべきの由これを申さる。右府所労を申さる。仍って大蔵卿彼の亭に参向す。
  内府今日参らるべし。堀河大納言所労を申さる。梅小路中納言今日参上すべきなり。
  広く及ぶべきの由先ず議有りと雖も、止めらると。敗軍等今日多く入洛すと。
 

6月9日 壬寅 [玉葉]
  泰経卿、先日の申状注し送るべきの由を示す。仍って注し遣わしをはんぬ。その状此
  の如し。
  関東・北陸乱逆を鎮めらるべき間の事
  重ねて追討の事、
   征討の謀り、将帥の最なり。彼の議奏の趣に就いて、重ねて評定に及ぶべきか。但
   し仰せ下さる如きは、士卒その力追討に疲れ、忽ち叶い難きと。もし然らば、伊勢
   ・近江両国に各々辺将を置き、中夏を守るべきか。
  (以下略)
 

6月上旬
  木曽冠者義仲は度々の合戦に打勝ちて、東山北陸二道の二手に分て打上る。東山道の
  先陣は尾張国すのまた川につく。北陸道の先陣は越前の国府につく。
 

6月12日 乙巳 天霽 [吉記]
  風聞に云く、近江の国の野・海・山を守護せんが為、当国庄々の兵士を催さる。蔵人
  の佐定長これを奉行す。また北面に祇候するの輩、堪否を論ぜず、東海道に下し遣わ
  すべし。一人も漏るるべからざるの由沙汰有りと。また肥後の守貞能数万の兵を率い、
  すでに都賀辺に着くと。
 

6月13日 丙午 陰晴不定 [吉記]
  源氏等すでに江州に打ち入る。筑後の前司重貞単騎逃げ上ると。
 

6月18日 辛亥 天陰雨降らず [吉記]
  肥後の守貞能今日入洛す。軍兵纔に千余騎と。日来数万に及ぶの由風聞す。洛中の人
  頗る色を失うと。
 

6月21日 甲寅 [吉記]
  関東・北陸賊徒の事に依って、山稜使を立てらる。上卿平大納言(時)、行事右少弁
  兼忠。柏原(桓武)、新中納言(頼實)。圓宗寺(後三條院)、源宰相中将(通親)。
  成菩提院(白川院)・安楽寿院(鳥羽院)、藤三位(雅長)。清閑寺(高倉院)、右中
  弁(親宗)等なり。
 

6月29日 壬戌 日中降雨 [吉記]
  世口嗷々驚かず。洛中上下東走西馳す。馬に負い車に積み雑物を運ぶ。静巖已講只今
  下洛示し送りて云く、日来江州に入る源氏ハ末々の者なり。木曽の冠者すでに入りを
  はんぬ。但し叡山衆徒相議(悪僧に於いては皆源氏に同ず。これ中堂衆等なり。去る
  頃北陸道より帰山す)し、源平両氏和平有るべきの由、僧綱已講を以て奏聞せんと欲
  す。この事もし裁許無くんば、一山源氏に同ずべしと。