1195年 (建久6年 乙卯)
 
 

5月3日 丁亥
  将軍家御劔を鞍馬寺に奉らる。相模の守惟義御使いたり。
 

5月10日 甲午
  熊野別当御甲を若公の御方に献る。将軍家御対面有り。殊に喜ばしめ給うと。
 

5月15日 己亥
  今夕、六條大宮辺に於いて、三浦の介義澄が郎等と足利の五郎が所従等と闘乱を発す。
  これに依って和田左衛門の尉義盛・佐原左衛門の尉義連以下、義澄が旅宿に馳せ集う。
  また小山左衛門の尉朝政・同五郎宗政・同七郎朝光以下大胡・佐貫の輩、足利の宿所
  に集う。将軍家景時を両方に遣わされ、和平の儀を仰せらるる間、夜に入り静謐せし
  むと。
 

5月18日 壬寅
  将軍家天王寺に御参り有るべし。御路次は船を用いらるべし。これ陸地叶うべからざ
  るの由、一條二品禅室申さるるが故なり。而るにこの事に依って、人々路次の雑事を
  献らんが為、所領を支配せらるるの由、或いはこれを触れ申し、或いは風聞するの間、
  将軍家殊に驚かしめ給い、早く停止せらるべきの旨、各々これを申し遣わさる。これ
  仏法値遇の為に霊場参詣を企つ。もし人の費えを成さしめば、還って仏意に乖くべき
  か。殊に御慎み有りと。揚震は黄金を辞し、恥を四知の慮に廻す。唐帝は離宮を造り、
  一幸の誉れを遺さず。今万人の財力を重んじ、忝なくも一身の志意を軽んじ給う。節
  倹の商量、殆ど古昔に超ゆるものか。後聞の人称美奉らずと云うこと莫しと。
 

5月20日 甲辰 陰、小雨濯ぐ
  卯の刻に天王寺に参り給う。御家人等に宛て疋夫を召す。御船の綱手を引れんが為な
  り。洛中は御乗車、鳥羽より御船を用いらる。丹後二品局の船を借用せしめ給う。一
  條二品禅室と御同道有るべきの由、兼ねて御約諾有るに依って、禅室御船を用意す。
  路頭の庄園に於いて雑事を宛てらるるの由その聞こえ有り。これ太だ賢慮に叶わざる
  の間、これを請けしめ給わざらんが為、御同道の儀を止めらるる所なりと。日中渡部
  に着御す。この所より御乗車。御台所の御車軒を連ぬ。女房出車等有り。各々行列を
  整う。随兵以下の供奉人皆騎馬すと。
  先陣の随兵
    畠山の次郎重忠         千葉の次郎師常
    村上判官代基国         新田蔵人義兼
    安房判官代高重         所雑色基繁
    武藤大蔵の丞頼平        野三刑部の丞成綱
    加藤次景廉           土肥の先次郎惟平
    千葉の三郎次郎         小野寺の太郎道綱
    梶原刑部の丞朝景        糟屋籐太兵衛の尉有季
    宇佐美の三郎祐茂        和田の五郎
    狩野の介宗茂          佐々木中務の丞経高
    千葉兵衛の尉常秀        土屋兵衛の尉義清
    後藤左衛門の尉基清       葛西兵衛の尉清重
    三浦左衛門の尉義連       比企右衛門の尉能員
    下河邊の庄司行平        榛谷の四郎重朝
  御車
  御後(水干)
    源蔵人大夫頼兼         越後の守頼房
    相模の守惟義          上総の介義兼
    伊豆の守義範          前の掃部の頭親能
    左衛門の尉朝政         右衛門の尉知家
    豊後の守季光          前の因幡の守廣元
    左近将監能直          右京の進季時
    三浦の介義澄          梶原平三景時
  後陣の随兵
    北條の小四郎義時        小山の七郎朝光
    修理の亮義盛          奈胡蔵人義行
    里見の太郎義成         浅利の冠者長義
    武田兵衛の尉有義        南部の三郎光行
    伊澤の五郎信光         村山の七郎能直
    北條の五郎時連         加々美の次郎長清
    八田左衛門の尉朝重       梶原左衛門の尉景季
    阿曽沼の小次郎         和田の三郎義實
    佐々木三郎兵衛の尉盛綱     大井兵三次郎實治
    小山の五郎宗政         所の六郎朝光
    氏家の太郎公頼         伊東の四郎成親
    小山田の三郎重成        宇都宮所の信房
    千葉の新介胤正         足立左衛門の尉遠元
  最末
    和田左衛門の尉義盛(家子・郎等を相具す)
  午の刻に御参着。先ず御念仏所(寺門外)に入御す。次いで御礼仏。長吏法親王予め
  灌頂堂に於いて待ち奉らしめ御す。将軍則ち御謁拝有り。次いで当寺の重宝等を拝見
  せしめ給う。次いで法親王還御す。将軍また旅店に帰り給う。その後御劔(銀作り蒔
  柄作り)を太子聖霊に奉らる。御馬一疋(糟毛、銀鞍を置き、一総鍬を懸く)を法親
  王に引き進せらる。左衛門の尉朝政御使いたり。御劔に於いては、法親王の御使いを
  朝政に相副えられ、宝蔵に納めらると。この外、絹布等の類を以て寺中の僧徒に施さ
  ると。
 

5月21日 乙巳
  晩鐘の程に、天王寺より御帰洛と。
 

5月22日 丙午
  将軍家御参内。この次いでを以て殿下御対面。都鄙理世の事、御談話一に非ずと。
 

5月23日 丁未
  六條殿に御参り。御退出の後旧院の法華堂(法住寺)に詣でしめ給う。供僧等に施物
  有りと。
 

5月24日 戊申
  前の掃部の頭親能将軍家の御使いとして高野山に向かう。これ東大寺の重源上人、去
  る十三日に逐電し、彼の山に在るの由近日風聞するの間、帰洛すべきの旨誘い仰せら
  るるに依ってなり。
 

5月29日 癸丑
  重源上人出来す。将軍の芳命を重んぜんが故なり。将軍関東御下向の事、日来彼が行
  方を尋ねらるるに依って延引す。来月に至らば、定めて祇園忌を除かるべからざるか。