1195年 (建久6年 乙卯)
 
 

4月1日 丙辰
  勘解由小路京極に於いて、結城の七郎朝光・三浦平六兵衛の尉義村・梶原平三景時、
  平氏の家人等を搦め取る。これ前の中務の丞宗資父子なり。この十余年跡を晦ますと。

[玉葉]
  頼朝卿馬二疋を送る。甚だ乏し少なし。これをして如何に。
 

4月3日 戊午
  将軍家並びに御台所・姫君等、密々石清水以下の霊地を巡礼し給うと。
 

4月5日 庚申
  畠山の次郎重忠明恵上人に謁せんが為、栂尾に参向す。而るに重忠近到の時、煙塵頗
  る動く。上人の門弟等、洛中焼亡有るかの由疑いを成すの処、上人云く、然るべから
  ず。その号有る勇士只今来入すべし。その気所見なりてえり。小時重忠参り名謁る。
  僧衆今更上人の詞を仰信すと。[時に重忠の為に]浄土宗の法門を談る。出離の要道
  を承り退出すと。
 

4月10日 乙丑
  将軍家御参内。随兵十騎御車の後に在り。
    小山左衛門の尉朝政       北條の五郎時連
    宇佐美の三郎祐茂        佐々木三郎兵衛の尉盛綱
    三浦十郎左衛門の尉義連     梶原三郎兵衛の尉景茂
    葛西兵衛の尉清重        加藤次景廉
    稲毛の三郎重成         千葉の四郎胤信
  今日禁裏に於いて殿下対面せしめ給う。御談話刻を移すの間、深更に及んで御退出す
  と。
 

4月12日 丁卯
  民部卿経房卿六波羅の御亭に参らる。将軍家相逢わしめ給い、盃酒の儀有り。因幡の
  前司陪膳に候ずと。この間、旧院御代の事と云い、当時御世務の事等と云い、御談話
  数刻に及ぶと。客人退出の後、砂金・龍蹄等を送り遣わさる。前の掃部の頭親能御使
  いたりと。
 

4月15日 庚午 晴、申以後雨降る
  今日将軍家石清水に参らしめ給う。若公御同車と。伊賀の守仲教・相模の守惟義・豊
  後の守季光等前駆たり。随兵二十騎。先後陣に相分かれ供奉す。
  先陣
    北條の小四郎義時        小山左衛門の尉朝政
    三浦兵衛の尉義村        葛西兵衛の尉清重
    大友左近将監能直        新田の四郎忠常
    後藤左衛門の尉基清       八田左衛門の尉朝重
    里見の太郎義成         武田の五郎信光
  後陣
    千葉の新介胤正         土屋兵衛の尉義清
    稲毛の三郎重成         梶原左衛門の尉景季
    佐々木左衛門の尉定綱      土肥の先次郎
    足立左衛門の尉遠元       比企右衛門の尉能員
    小山の七郎朝光         南部の三郎光行
 

4月17日 壬申
  丹後二品局六波羅の御亭に参らる。御台所・姫公等御対面に及ぶ。今日、殿下賀茂社
  に参り給うと。而るに将軍家御家人等中に仰せられて曰く、この事見物の為に罷り出
  づべからずと。これ御見物無きに依ってなり。
 

4月21日 丙子
  将軍家御参内。また宣陽門院に参らしめ給う。長講堂領七箇所の事、故院遺勅に任せ、
  立てらるるべきの由申し沙汰し給うなりと。
 

4月22日 丁丑
  今日また御参内と。
 

4月24日 己卯
  長講堂領七箇所、元の如く乃貢を進済すべきの由治定すと。これ将軍家申し行わしめ
  給うに依ってなり。
 

4月27日 壬午
  将軍家梶原平三景時を以て御使いとして、住吉社に奉幣せしめ給い、神馬を奉らる。
  今夕景時社頭に参着し、和歌一首を釣殿の柱に注し付すと。
   我きみのたむけの駒を引きつれてゆくゑとをきしるしあらはせ