1195年 (建久6年 乙卯)
 
 

7月1日 癸未
  熱田社御奉幣。大宮司範経龍蹄・御劔等を奉らる。御馬を引き進すと。今日、稲毛の
  三郎重成武蔵の国に馳せ付く。恩賜の馬すでに龍の如し。仍って三日黒と号くと。
 

7月2日 甲申
  遠江の国橋下の駅に於いて、当国の在廰並びに守護・沙汰人等予め参集す。義定朝臣
  の後、国務及び検断等の事、清濁に就いて、聊か尋ね成敗せしめ給う事有りと。
 

7月4日 丙戌
  稲毛の三郎重成が妻武蔵の国に於いて他界す。日来病脳、頻りに鵲療を加うると雖も、
  終に風痾に侵されをはんぬ。重成別離の愁いに耐えず。頗る勇敢の心を倦み、忽ち出
  家を遂ぐと。
 

7月6日 戊子
  黄瀬河の駅に於いて、駿河・伊豆両国の訴事等の條々善政を加えしめ給うと。
 

7月8日 庚寅
  申の刻に将軍家鎌倉に着御すと。
 

7月9日 辛卯
  御台所、比企右衛門の尉能員が家に渡御す。これ稲毛の女房他界に依って御軽服なり。
 

7月10日 壬辰
  北條殿・江間殿伊豆の国に下らる。これ軽服の故なり。また今度御上洛の間供奉の御
  家人等、多くこれ身の暇を賜り帰国すと。
 

7月12日 甲午
  鶴岡八幡宮に御参り。都鄙の御往還無為の御報賽と。
 

7月13日 乙未
  土肥の後家尼参上す。下若等を相具す。御前に召し御賞翫に及ぶと。
 

7月14日 丙申
  将軍家勝長寿院に御参り。
 

7月15日 丁酉
  永福寺御礼仏。また勝長寿院に於いて、盂蘭盆の御仏事・万灯会等を修せらる。
 

7月16日 戊戌
  武蔵の国務の事、義信朝臣の成敗、尤も民庶の雅意に叶うの由聞こし召し及ぶに就い
  て、今日御感の御書を下さると。向後国司に於いては、この時の趣を守るべし。壁書
  を府廰に置かると。散位盛時奉行すと。
 

7月17日 己亥
  齋藤左衛門の尉基員、御代官として相模の国大山寺に参る。今暁進発すと。
 

7月19日 辛丑
  故平大納言時忠卿が左女牛の地の事、没官領の注文に入れらるると雖も、自然閣かる
  る所なり。今度御上洛の時、便宜の地たるに依って、若宮の供僧等に充て賜るべきの
  旨、内々御計らい有り。而るに御下向の後、彼の亜相後室尼上並びに師の典侍尼等こ
  の事を伝え聞き、追って専使を差し進し殊に愁い申す。その状去る夕到着す。今朝御
  返事有り。盛時これを書く。当時収公の儀無きか。早く彼の跡元の如く進退領掌すべ
  きの由と。
 

7月20日 壬寅
  若公御方の御厩始めて御馬三疋を立つ。比企の籐次これを奉行す。進す所の人々は、
  態とこれを撰び仰せらると。
   一疋 黒駮  千葉の介常胤
   一疋 鴾毛  小山左衛門の尉朝政
   一疋 河原毛 三浦の介義澄
 

7月24日 丙午
  新熊野領安房の国群房庄領家年貢の事、去年未済有るの由訴え出来す。この事度々に
  及ぶの上、今に至っては、暫く地頭職を召し放ち、当時の得分物を点じ、去今両年の
  本所乃貢に補すの後、返し賜るべきや否やの事に於いては、追って御計らい有るべき
  の由定めらると。行政これを奉行す。数百果厳重の神用闕くること無く、十二所権現
  の霊威定めて新たなるものか。
 

7月26日 戊申
  貢馬進発の事、事を御上洛の供奉に寄せ、懈緩の儀を存ずべからざるの由、今日面々
  仰せ付けらると。仲業奉行すと。
 

7月28日 庚戌
  武蔵の国染殿別当の事、女房上野局に仰せ付けらる。糸所別当の事、近衛局これを奉
  る。
 

7月29日 辛亥
  早旦浜御所に渡御す。御遊興終日。御笠懸等有り、また管弦の妙曲を聞こし食す。北
  條殿経営すと。