8月1日 癸丑
放生会の期に到り、殺生禁断の事厳密仰せ下さると。
8月2日 甲寅
放生会以後、信濃の国善光寺に御参り有るべき由仰せ下さると。
8月6日 戊午
丹後の国志楽庄並びに伊称保領家雑掌の解到来す。地頭後藤左衛門の尉基清濫妨・狼
藉を致すの由と。子細を尋ね聞き、事実ならば、地頭職三分の一を分け取り、これを
注し申すべし。他人を補任せらるべきの旨、前の掃部の頭親能に仰せらると。
8月8日 [愚管抄]
中宮(任子)御産とののしりけり。いかばかりかは御祈前代にも過たりけり。されど
皇女(昇子内親王)をうみまいらせられて、殿は口をしくをぼしけり。
8月9日 辛酉
御台所の御方に於いて、故稲毛の女房の為仏事を修せらる。導師は行慈法眼と。
8月10日 壬戌
熊谷の次郎直實法師京都より参向す。往日の武道を辞し、来世の仏縁を求めてより以
降、偏に心を西刹に繋ぎ、終に跡を東山に晦ます。今度将軍家御在京の間、所存有る
に依って参らず。追って千程の嶮難を凌ぎ、泣いて五内の蓄懐を述ぶ。仍って御前に
召す。先ず厭離穢土・欣求浄土の旨趣を申し、次いで兵法の用意・干戈の故実等を談
り奉る。身は今法躰すと雖も、心は猶真俗を兼ねぬ。聞く者感歎せざると云うこと莫
し。今日則ち武蔵の国に下向すと。頻りにこれを留めしめ給わるると雖も、後日参る
べきの由を称し退出すと。
8月12日 晴 [三長記]
辰の刻ばかりに資兼が許より告げ送りて云く、聊か御産気と。倒衣裳馳参す。卯の刻
ばかりに聊か事の疑い有りと雖も、その後御産気無しと。
8月13日 乙丑
北條殿・江間殿伊豆の国より帰参すと。
[三長記]
漸く日出に及び、公卿・太相国・左大臣以下出仕の人大略参集し、中門廊の座に候ぜ
らる。内裏より御使い連綿す。非常赦行わるべきの由、蔵人次官親国を以てこれを奏
せらる。則ち宣下。また御衣・御馬を熊野に進せらる。御修法僧等御加持を奉仕す。
巳の刻に及び平安に遂げ御す。殿下皇女の御耳下に寄り祝詞を誦え給う。抑も日来皇
子降誕すべきの由、或いは霊夢有り。或いは偏に天下一同謳歌するに依って、また御
祈り等先の御例に超過す。修法四十壇に及び、その外勝計うべからず。寛弘以降籐氏
の后妃この儀無く、今この事有り。定めて皇子御すかの由世これを推す。今此の如き、
頗る以て遺恨に似たり。
8月14日 丙寅
将軍家放生会流鏑馬の射手等を相率い、由井浦に出で面々の射芸を試みしむ。十六騎
を撰定せらると。
8月15日 丁卯
鶴岡の放生会なり。将軍家御参宮。梶原源太左衛門の尉景季御劔を持つ。望月の三郎
重隆御調度を懸く。舞楽有り。伊豆の守義範・豊後の守季光・千葉の介常胤・三浦の
介義澄・小山左衛門の尉朝政・八田右衛門の尉知家・比企右衛門の尉能員・足立左衛
門の尉遠元等、召しに依って廻廊に参候すと。
8月16日 戊辰
今日また御参宮。馬場の流鏑馬有り。射手十六騎、皆堪能を撰ばるる所なり。
一番 三浦和田の五郎(義長)
二番 里見の太郎(義成)
三番 武田の小五郎(信政)
四番 東の平太(重胤)
五番 榛谷の四郎(重朝)
六番 葛西の十郎
七番 海野の小太郎(幸氏)
八番 愛甲の三郎(季隆)
九番 伊東の四郎(成親)
十番 氏家の太郎(公頼)
十一番 八田の三郎(知基)
十二番 結城の七郎(朝光)
十三番 下河邊の四郎(政義)
十四番 小山の又四郎
十五番 江間の太郎(泰時)
十六番 梶原三郎兵衛の尉(景茂)
8月17日 己巳
御台所営中に帰らしめ給う。御軽服に依って、神事の間日来他所に御坐すと。
8月18日 晴 [三長記]
亮條々の事を申さる。御装束改めの事二十日申日なり。憚るべきやの事、鎌倉申状等
の事(件の事今に於いては、職事申し沙汰すべきか。内々御気色を取るの由これを示
さる)。
8月19日 辛未
将軍家御歯の御労再発すと。
8月23日 乙亥
善光寺御参詣の事暫く延引す。漸く寒天に属せしめば、明春たるべきの由、御家人等
に触れ仰せらると。
8月26日 戊寅
歯御労の事、聊か御平癒の間、御船により海浦を歴て三崎に渡御す。御遊覧等有り。
今度京都より御下向の後、未だこの儀に及ばずと。
8月28日 庚辰
東国の庄園、強竊の二盗並びに博奕等不善の輩所々に隠居すに於いては、その所の地
頭職を召し放ち、搦め進す仁に充て賜るべきの旨、陸奥・出羽以下の国々に仰せ下さ
ると。
8月29日 辛巳
鶴岡上下宮常燈油の事、大名等の役として、結番せられ毎月進すべきの由、日来定め
仰せらるるの処、まま対捍有るの間、仍って今日人数を加増し、毎日結番する所なり。
これ則ち少しに就いても懈緩無き為なり。その内上旬五箇日は御分たるべし。毎日宮
寺に持参せしむべきの旨、清常所に書き下さると。行政これを奉行す。