1195年 (建久6年 乙卯)
 
 

10月1日 壬子
  武蔵の国以下御分国の所課・本所乃貢の事、不日に沙汰を致すべきの旨、厳密の仰せ
  有り。而るに今年土民等、損亡の事等を愁い申す間、定めて合期の進済有り難きかの
  由、奉行人右衛門の尉能員・散位行政等これを申すと。
 

10月3日 甲寅
  天文博士資元朝臣の去る月十七日の書状参着す。太白変の事、一巻の勘文を副え進す
  所なり。
 

10月7日 戊午
  鶴岡臨時祭なり。将軍家御参宮。江間の太郎・北條の五郎・伊豆の守義範・豊後の守
  季光・江左衛門の尉成季以下供奉すと。御経供養有り。導師は大學法眼行慈と。
 

10月8日 乙未
  貢馬八疋京都に進せらる。和泉大掾国守これを相具すと。
 

10月11日 壬戌
  護念上人慈應越後の国より参上す。佐々木三郎兵衛の尉盛綱執り申す所なり。将軍家
  御対面有り。これ故六條廷尉禅門の末子、幕下の叔父なり。仍って礼節殊に甚深なり
  と。遁俗の後、兼学・顕密の両宗、剰えその徳を修験す。近年越後の国加地庄菅谷山
  を点じ、天台山無動寺の地形に模す。一伽藍を建立し、不動明王の尊像を安置す。そ
  の傍らに草庵を構え居住す。練行日に新たなりと。
 

10月13日 乙丑
  故木曽左馬の頭義仲朝臣の右筆大夫房覺明と云う者有り。元これ南京の学侶なり。義
  仲朝臣誅罸の後、本名に帰り信救得業と号す。当時筥根山に住むの由これを聞こし食
  し及ぶに就いて、山中の外鎌倉中並びに近国に出るべからざるの旨、今日御書を別当
  の許に遣わさると。
 

10月15日 丁卯
  大姫公日来御病悩。寝食例に乖き、身心常に非ず。偏に邪気の致す所か。護念上人仰
  せに依ってこれを加持し奉らる。仍って今日復本せしめ給う。縡の厳重・法の効験、
  将軍殊に随喜し給う。勧賞その次いでを求め、仏法を興隆せんが為、一庄を不動堂に
  寄付致すべきの旨仰せ出ださるると雖も、存念有りと称し、敢えて諾し申されずと。
  聖者の深思、凡愚の測り難きものか。
 

10月16日 丁卯 [三長記]
  今日姫宮親王宣旨を下さる。晩頭殿下御参り有り。内々評定所三字を選び申すなり
  (在・瑛・昇字なり)。昇字たるべきの由仰せ下さる。公定勘文を以て頭権亮公房朝
  臣に授く。仰せ昇字を用いるべきの由、頭権亮檀紙一枚を以て昇子二名を書写す。頭
  権亮仗座を出で、御名字文を左府に下す。仰せ内親王たるべきの由、次いで退帰す。
 

10月17日 己巳
  美濃の国の地頭等所当難済の事仰せ下さるるの間、早く催進せしむべきの旨、今日相
  模の守惟義が許に仰せ遣わさると。
 

10月20日 壬申
  貢馬三疋重ねて京都に進せらる。今暁進発すと。
 

10月21日 癸酉
  御持仏堂造営事始め有り。而して左近将監能直・左京の進仲業等これを奉行す。将軍
  家監臨せしめ給うと。
 

10月26日 戊寅
  若公、鶴岡八幡宮並びに三浦栗濱大明神等に御参り給う。北條の五郎・比企右衛門の
  尉能員以下五十余人供奉すと。
 

10月27日 己卯
  若公三浦より帰らしめ給う。介の義澄御引出物を献ず。その次いでを以て和田左衛門
  の尉義盛が宅に入御すと。
 

10月28日 庚辰
  護念上人越後の国に帰る。これを留めしめ給うと雖も、聚落の交わり庶幾わざるの由
  答え申し、楚忽に進発すと。