1195年 (建久6年 乙卯)
 
 

11月1日 壬午
  将軍家鶴岡八幡宮に御参りと。
 

11月4日 乙酉
  嘉祥寺領長門の国河棚庄の事、守護人領家所務を妨ぐの由仰せ下さるるの間、この所
  の事、去る文治年中、院宣に依って地頭職を停止しをはんぬ。今更違乱の條、罪科を
  招くか。慥に停止すべきの旨、今日仰せ下さるる所なりと。
 

11月6日 丙戌
  下河邊の庄司行平の事、将軍家殊に芳情を施さるるの余り、子孫に於いては永く門葉
  に准うべきの旨、今日御書を下さると。
 

11月10日 辛卯
  鶴岡の御神楽等なり。将軍家御参り有り。陪従江左衛門の尉景節秘曲等を唱う。時に
  風雨俄に起こる。殆ど神威の瑞有りと。
 

11月13日 甲午
  北條殿伊豆の国に下向せらる。三嶋社の神事に参会せんが為なりと。
 

11月19日 庚子
  相模の国大庭御厨俣野郷の内に大日堂有り。今日田畠を寄進す。未来の際を限り、仏
  聖燈油料に宛らる。これ故俣野の五郎景久帰敬の梵閣なり。本仏は、則ち権五郎景政
  在生に、伊勢大神宮の御殿二十年一度造替の時、彼の心御柱を伐り取り、これを造立
  し奉る。権大僧都頼親の室に於いて開眼供養を遂ぐ。東国衆人を守護し給うべきの由
  誓願せしめ、これを安置し奉る。仏神の合躰尤も掲焉なり。内外の利生何ぞ疑わんか。
  違跡を相伝せしむの処、景久滅亡の後、堂舎漸く傾危に及び、仏像雨露に侵さる。景
  久の後家尼旦暮この事を愁い、醒めても寝てもその功を思う。三浦の介義澄これを伝
  え聞き、本より帰仏帰法の志有るに依って、興隆興行の儀を執り申す。而るに景久は
  反逆者たりと雖も、景政は源家の忠士たるなり。本尊はまた御衣木の濫觴と云い、当
  伽藍の由緒と云い、誠に檀那の誓約に任せ、専ら柳営の護持せしめ給うかの由御沙汰
  有り。聊か御奉加に及ぶと。
 

11月20日 辛丑
  北條殿伊豆の国より馳参せしめ給う。一昨日(十八)、三嶋社第三御殿の上に、鳥頭
  切れて死に伏すの由申さると。
 

11月21日 壬寅
  北條の五郎時連御使いとして、三嶋社に参らる。神馬・御劔以下弊物等を相具すと。
  また菊太の三郎家正(不断潔斎すと)仰せに依って同じく進発す。千度詣での為なり。
  両條怪異を謝せらるべきが故なりと。
 

11月24日 晴 [三長記]
  今夜姫宮入内の事有り。御車・公卿源中納言・花山宰相中将・別当・籐三位・右大弁
  等供奉す。予前駈を勤仕す。
 

11月25日 丙午
  伊豫の国越智郡地頭職を停止せらる。これ殿下領掌せしめ給うべきに依ってなり。