1200年 (正治2年 庚申)
 
 

5月5日 己未 小雨降る
  鶴岡臨時祭。羽林御参宮無し。大膳大夫廣元朝臣(束帯)奉幣の御使いたり。流鏑馬
  の時、馬場に於いて見物の輩の中喧嘩有り。一両人殺害せらる。長江の四郎明義が僕
  従等と。
 

5月12日 丙寅
  羽林念仏の名僧等を禁断せしめ給う。これ黒衣を悪ましめ給うが故と。仍って今日件
  の僧等十四人を召し聚め、恩喚に応ずるの間、比企の彌四郎仰せを奉りこれを相具す。
  政所の橋辺に行き向かい、袈裟を剥ぎ取りこれを焼かる。見る者堵の如し。皆弾指せ
  ざると云うこと莫し。僧の中伊勢称念と云う者有り。御使いの前に進み申して云く、
  俗の束帯・僧の黒衣、各々同色を為し用い来たる所なり。何ぞこれを禁め給うべきや。
  凡そ當時御釐務の躰を案ずるに、佛法・世法眞に以て滅亡の期と謂うべし。称念の衣
  に於いては更に焼くべからずと。而るに彼の分の衣に至り、その火自ら消え焼けず。
  則ちこれを取り元の如く着し逐電すと。
 

5月25日 己卯
  江間殿妾男子を平産すと。加持の為、若宮別当去る夜より彼の大倉亭に坐せらる。今
  朝羽林御馬を遣わさる。尼御台所産衣を給うと。
 

5月28日 壬午
  陸奥の国葛岡郡新熊野社の僧坊領境を論ず。両方文書を帯し、惣地頭畠山の次郎重忠
  が成敗を望む。重忠辞して云く、当社は領内に存すと雖も、秀衡管領の時、公家の御
  祈祷を致さしむ。今更に武門繁栄を祈り奉るの上は重忠自専し難きてえり。則ち大夫
  屬入道善信に付けこれを挙げ申す。仍って今日羽林彼の進す所の境絵図を召覧す。御
  自筆を染め、墨をその絵図の中央に曳かしめ給いをはんぬ。所の廣狭はその身の運否
  に任すべし。使節の暇を費やし、地下を実検せしむに能わず。向後境相論の事に於い
  ては、此の如く御成敗有るべし。もし未尽の由を存ずるの族に於いては、その相論を
  致すべからざるの旨仰せ下さると。