1200年 (正治2年 庚申)
 
 

4月8日 癸巳 晴、風烈し。
  佐々木左衛門の尉廣綱が飛脚京都より参着す。申して云く、去る月二十九日白昼六條
  万里小路に於いて、若狭の前司保季、掃部入道が郎等吉田右馬の允親清が妻を犯す。
  親清六波羅より帰るの処、この事有り。即ち太刀を取りこれを追い、六條南・万里小
  路西、九條面平門の内にこれを斬り伏す。その後彼の男廣綱が許に来たり。而るに摂
  津権の守入道と号する者奔り来たり、傍輩と称し請け取るの処、使の廰の召しに依っ
  て、廷尉の方に渡さんと欲するの間、駿馬に策ち逐電しをはんぬ。仍ってその前途を
  尋ねるの刻、摂津権の守また行方を知らず。保季父少輔入道(寂蓮)訴え申すに就い
  て、頻りにその召し有り。定めて東国に遁れ下るかの由推察を廻らし、兼ねて以て言
  上すと。この保季、容顔華麗にして潘安仁に異ならず。斬殺せらるの時、僅かに着せ
  しむ所の小袖頸辺を覆いその身を顕わす。観る者堵の如し。皆悲涙を拭うと。
 

4月9日 甲午
  北條殿去る一日遠江の守に任ず。従五位下を叙し給う。彼の除書今日到来すと。
 

4月10日 乙未 甚雨。連日降雨。還って炎旱の瑞たりと。
  今日、掃部の頭廣元朝臣江間殿に申し送りて云く、去る月若狭の前司保季を殺害せし
  むるの男手を束ね来たり。何様に為すべきや。御意見に随って披露すべしと。御返事
  に云く、是非に付いて披露せらるべしと。江間の太郎主仰せられて云く、郎従の身と
  して諸院宮昇殿の者を殺害す。武士に於いてまた指せる本意に非ず。白昼行う所罪科
  重きや。直に使の廰に召し進し、誅せらるべきものかと。守宮この事を聞き、感嘆落
  涙に及ぶと。
 

4月11日 丙申
  廣元朝臣申す。彼の親清が罪名、善信が如き沙汰有り。降人として参向せしむるの上
  は、暫くこれを召し置き、事の由を使の廰に相触れられ、その落居有るべきの由定め
  らると。仍って今日廣綱が使者帰洛す。