1200年 (正治2年 庚申)
 
 

8月1日 甲申
  羽林比企新判官能員が家に入御すと。
 

8月2日 乙酉
  佐々木中務の丞経高御気色を蒙る。淡路・阿波・土佐已上三箇国の守護職以下所帯等
  これを召し放たる。その趣を以て京都に申さるる所なり。これ日来聊か罪科に依って
  沙汰を経らるると雖も、勲功他に異なるの間、暫く相宥むるの処、洛中警衛の士とし
  て京都を騒がしむ。叡慮に背くの條、私の寛宥に及び難きの旨、再往沙汰を経られ、
  此の如しと。
 

8月4日 晴陰 [明月記]
  三崎庄地頭の間の事、折紙に書き進すべし。鎌倉に仰せ遣わすべきの由、景親を以て
  殿の仰せ有り。書き進すべき由申しをはんぬ。
 

8月10日 癸巳
  陸奥・出羽両国の諸郡郷地頭所務の事、秀衡・泰衡が旧規を守るべきの旨、故将軍の
  御時定めらるるの処、各々ややもすれば境以下の事非論を成すの間、彼の例に任すべ
  きの由、今日重ねてこれを定めらる。且つは秀衡等が知行の時、境毎に札を懸けをは
  んぬ。その古跡を以て傍示と為さしむべきの由と。廣元・親能等の朝臣仰せに依って
  下知を加う。中村掃部の丞留守所に相触ると。
 

8月15日 戊戌
  鶴岡放生会、羽林御参宮例の如し。
 

8月16日 己亥 甚雨。
  流鏑馬例の如し。羽林御出で無し。大膳大夫奉幣の御使いたり。
 

8月21日 甲辰
  宮城の四郎御使節として奥州に下向す。これ芝田の次郎、尋ね問わるべき事有るに依
  って度々遣わし召すと雖も、病痾と称し参らず。仍ってこれを追討せられんが為なり。
  午の刻に宮城首途す。甘縄の宅を出で御所に参る。家子三人・郎等十余人を相具し、
  侍西南の角に候ず。頃之、廣元朝臣廊根の妻戸に出で御使いを招き、事の由を召し仰
  す。その後退出の刻に御馬(鞍を置く)を給う。中野の五郎能成庭上に引き立つ。宮
  城これを給い退出す。