1200年 (正治2年 庚申)
 
 

9月2日 乙卯 快晴
  羽林小壺の海辺を歴覧せしめ給う。小坂の太郎・長江の四郎等御駄餉を儲く。例の笠
  懸有り。結城の七郎朝光・小笠原阿波の彌太郎・海野の小太郎幸氏・市河の四郎義胤
  ・和田兵衛の尉常盛等その射手たり。次いで海上に船を粧い、盃酒を献る。而るに朝
  夷名の三郎義秀水練の聞こえ有り。この次いでを以てその芸を顕わすべきの由御命有
  り。義秀辞し申すこと能わず。則ち船より下り海上に浮かび、往還十を数う。結句波
  の底に入り暫く見えず。諸人怪しみを成すの処、生鮫三喉を提げ、御船の前に浮上す。
  満座感ぜざると云うこと莫し。羽林今日御騎用の龍蹄(名馬、諸人競望を為す)を以
  て義秀に給うの処、義秀が兄常盛申して云く、水練は義秀に覃ばずと雖も、相撲に於
  いては長兄の験有るべし。御馬を兄弟の中に置き、相撲を覧玉うの後、勝負に就いて
  これを下さるべしと。羽林興に入り、御船を岸に着け、小坂の太郎が前庭に於いてこ
  れを召し決せらる。二人共衣装を解き立ち向かう。その勢色力士に異ならず。対揚に
  勝劣無し。各々取り合い数反に及ぶ。この間立つ所の地頗る震動するが如し。人以て
  壮観を為す。義秀頻りに勝負を好む。常盛聊か雌伏の気有り。爰に江間殿興を感ずる
  の余り、座を起ち両人の中に隔て立てらる。時に常盛衣を着るに及ばず、裸で件の馬
  に乗り鞭を揚げ逐電す。義秀後悔千万。観る者皆頤を解く。彼の馬奥州一の名馬なり。
  廣元朝臣これを献ず。常盛日来平に所望を成すと雖も下されずと。秉燭の間鎌倉に還
  御す。
 

9月9日 壬戌
  鶴岡の神事なり。羽林御参宮無し。江間の太郎主羽林奉幣の御使いたり。
 

9月25日 戊寅
  安達源三郎親長・山城の三郎行村等、日来官途の事を所望す。仍って靱負の尉に挙し
  申さるる所なり。