1201年 (正治3年、2月13日改元 建仁元年 辛酉)
 
 

3月3日 癸丑 晴
  鶴岡一切経会。神事例の如し。左金吾御参りと。
 

3月4日 甲寅
  京都の飛脚参着す。去る月二十二日、城の四郎長茂並びに伴類新津の四郎以下、吉野
  の奥に於いて誅せられをはんぬ。長茂先立って出家を遂ぐ。同二十五日、長茂並びに
  伴党四人の首大路を渡さると。
 

3月10日 庚申 卯の刻に地震。
  未の刻に若宮大路の西頬焼亡す。懐嶋平権の守の旧跡・土屋の次郎・和田左衛門の尉
  等が宅以南、由井の人屋に至り、片時の間に数町災す。
 

3月12日 壬戌
  京都の飛脚参り申して云く、去る月二十九日、城の四郎長茂余党城の小次郎資家入道
  ・同三郎資正・本吉の冠者隆衡、官軍を以て誅せらると。
 

3月24日 甲戌 晴
  千葉の介常胤(年八十四)卒す。従五位下行下総の介常重一男、母は平の政幹女。鳥
  羽院の御宇、元永元年戊戌五月二十四日生れと。