1201年 (正治3年、2月13日改元 建仁元年 辛酉)
 
 

2月1日 壬午 霽
  宰相阿闍梨尊暁(法眼圓暁弟子)鶴岡別當に補す。今日始めて神拝を遂ぐ。その後左
  金吾に参賀す。大官令申次たり。
 

2月3日 甲申
  未の刻、掃部入道・佐々木左衛門の尉定綱・小山左衛門の尉朝政(大番勤仕の為在京
  す)、仙洞(二條殿)に朝覲行幸。春宮(二)・七條院一宮同じく臨幸す。爰に越後
  の国の住人城の四郎平の長茂(城の四郎助国四男)軍兵を引率し、朝政が三條東洞院
  の宿廬を圍む。朝政行幸に供奉し留守の程なり。残留する所の郎従等禦ぎ戦うの間、
  長茂引退す。即ち行幸還御以前に仙洞に推参し四門を閉ず。関東を追討すべきの宣旨
  を申す。然れども勅許無きに依って長茂逐電す。清水坂に有るの由風聞するの間、朝
  政等馳せ向かうと雖も、行方を知らずと。彼の使者先ず大官令亭に到着し、次いで御
  所に参る。この間諸人群参し鎌倉中騒動す。制止を加えらるるに依って、夜に入り静
  謐すと。
 

2月5日 丙戌
  京都の飛脚等帰洛す。長茂の事、有所を伺い尋ねるべきの由、京畿の御家人等に仰せ
  らると。
 

2月13日 [皇年代略記]
  改元。革命(辛酉)に依ってなり。
 

2月22日 癸卯 陰、南風烈し。
  今日改元の詔書到来す。去る十三日正治三年を改め建仁元年と為すと。大夫屬入道彼
  の書を御所に持参す。即ち施行せしむべきの由仰せらるる所なり。