1204年 (建仁4年、2月20日改元 元久元年 甲子)
 
 

8月3日 癸巳
  今日、鎌倉中の寺社領等の事その沙汰有り。左京の進仲業永福寺公文職を補す。且つ
  は寺中の沙汰を奉行せしめ、且つは寺領年貢の進末を明らかにすべきの由仰せ付けら
  ると。
 

8月4日 甲午
  将軍家御嫁娶の事、日来は上総の前司息女たるべきかの由その沙汰有りと雖も、御許
  容に及ばず。京都に申されすでにをはんぬ。仍って彼の御迎え以下用意の事、今日内
  談有り。供奉人に於いては、直の御計らいとして人数を定めらる。容儀花麗の壮士を
  以て選び遣わさるべきの由と。
 

8月15日 乙巳
  鶴岡放生会。将軍家御軽服の間、宮寺に付けこれを行わる。夜に入り、将軍家明月に
  乗じ由比の浦に出しめ給う。一両艘の舟船を粧い、六七輩の伶人を召す。管弦各々妙
  曲を尽くす。
 

8月21日 辛亥
  石清水八幡宮寺領河内の国高井田の事、将軍家御祈祷所として地頭を止められをはん
  ぬ。宮寺の沙汰たるべきの由、今日仰せ遣わさると。
 

8月29日 天晴 [明月記]
  他僧また二人召し出さると。一人中門廊の西面に在り。後聞、検非違使三人参り、各
  々下部を以て引っ張り退出す。これ日来不当を聞こし食し置くの間、遂に生涯を失う
  か。遠流の由宣下せらると。また法眼と(鎌倉並びに卿三位寵人、近代権門)。忽ち
  時政朝臣申すに依って遠流せらる。堂罪の計を失い、この僧の結構より源出す。また
  堂衆滅亡の時、その住宅資財等多く運び取る。穢物を論ぜず王子宮彼岸所に安置す。
  此の如き積悪神慮に背く。叡聞に達すと。