1204年 (建仁4年、2月20日改元 元久元年 甲子)
 
 

7月14日 甲戌
  未の刻、将軍家俄に以て痢病を患わしめ給う。諸人群参すと。
 

7月15日 乙亥
  将軍家御不例。猶御平癒の儀無し。仍って鶴岡宮に於いて真読大般若経を始行せらる。
  当宮の供僧等これを奉仕す。駿河の守季時御使いとして宮寺に参る。三箇日中に結願
  すべきの由仰せ下さるる所なり。


7月18日 [愚管抄]
  修善寺にて、また頼家入道をば指ころしてけり。とみにえとりつめざりければ、頸に
  緒をつけ、ふぐりを取などしてころしてけりと聞えき。人はいみじくたけきも力及ば
  ぬことなりけり。ひきは其郡に父の党とて、みせやの大夫行時と云う者のむすめを妻
  にして、一万御前が母をばもうけたるなり。その行時は又兒玉党にしたるなり。
 

7月19日 己卯
  酉の刻、伊豆の国の飛脚参着す。昨日(十八日)左金吾禅閤(年二十三)、当国修善
  寺に於いて薨じ給うの由これを申すと。

[北條九代記]
  金吾を誅し奉る。
 

7月23日 癸酉 快霽
  将軍家御病悩平癒するの間、沐浴し給う。
 

7月24日 甲申
  左金吾禅閤の御家人等、片土に隠居し謀叛を企つ。縡発覚するの間、相州金窪の太郎
  行親已下を差し遣わし、忽ち以てこれを誅戮せらる。
 

7月26日 丙戌
  安藝の国壬生庄地頭職の事、山形の五郎為忠と小代の八郎等と相論するの間、守護人
  宗左衛門の尉孝親の注進状に就いて、今日御前に於いて一決せらる。遠州並びに廣元
  朝臣等御前に候ぜらる。これ将軍家直に政道を聴断せしめ給うの始めなり。