1205年 (元久2年 乙丑)
 
 

6月1日 丁亥 晴
  将軍家御願、鶴岡宮に於いて、一日中大般若経一部を転読せらる。御布施は紺絹五十
  端。三浦兵衛の尉義村これを沙汰す。


6月20日 丙午 晴
  同宮臨時祭例の如し。夕に及び、畠山の六郎重保武蔵の国より参着す。これ稲毛の三
  郎重成入道これを招き寄すと。
 

6月21日 丁未 晴
  牧の御方朝雅(去年畠山の六郎の為悪口せらる)が讒訴を請け、欝胸せらるるの間、
  重忠父子を誅すべきの由内々計議有り。先ず遠州この事を相州並びに式部の丞時房主
  等に仰せらる。両客申されて云く、重忠は治承四年以来忠直を専らとするの間、右大
  将軍その志を覧給うに依って、後胤を護り奉るべきの旨、慇懃の御詞を遺さるる者な
  り。就中、金吾将軍の御方に候ずと雖も、能員合戦の時、御方に参りその忠を抽んづ。
  これ併しながら父子の礼(重忠は遠州聟なり)を重んずるが故なり。而るに今何の憤
  りを以て叛逆を企つべきや。もし度々の勲功を棄てられ、楚忽の誅戮を加えられば、
  定めて後悔に及ぶべし。犯否の真偽を糺すの後、その沙汰有るも停滞すべからざらん
  かと。遠州重ねて詞を出さず座を起たる。相州また退出し給う。備前の守時親牧の御
  方の使いとして、追って相州の御亭に参り申して云く、重忠謀叛の事すでに発覚す。
  仍って君の為世の為、事の由を遠州に漏らし申すの処、今貴殿の申さるるの趣、偏に
  重忠に相代わり、彼が奸曲を宥められんと欲す。これ継母の阿党を存じ、吾を讒者に
  処せられんが為かと。相州、この上は賢慮に在るべきの由これを申さると。
 

6月22日 戊申 快晴
  寅の刻に鎌倉中驚遽す。軍兵由比の浜の辺に競走す。謀叛の輩を誅せらるべしと。こ
  れに依って畠山の六郎重保、郎従三人を具しその所に向かうの間、三浦平六兵衛の尉
  義村仰せを奉り、佐久間の太郎等を以て重保を相囲むの処、雌雄を争うと雖も、多勢
  を破ること能わず。主従共誅せらると。また畠山の次郎重忠参上の由風聞するの間、
  路次に於いて誅すべきの由その沙汰有り。相州已下進発せらる。軍兵悉く以てこれに
  従う。仍って御所中に祇候するの輩少し。時に問注所入道善信、廣元朝臣に相談して
  云く、朱雀院の御時、将門東国より起る。数日の行程を隔つと雖も、洛陽に於いて猶
  固関の如きの構え有り。上東・上西両門(元土門なり)始めて扉を建てらる。矧や重
  忠すでに近所に莅み来たるか。蓋し用意を廻せんやと。これに依って遠州御前に候じ
  給い、四百人の壮士を召し上げ御所の四面を固めらる。次いで軍兵等進発す。
  大手の大将軍は相州なり。先陣は葛西兵衛の尉清重、後陣は堺平次兵衛の尉常秀・大
  須賀の四郎胤信・国分の五郎胤通・相馬の五郎義胤・東の平太重胤なり。その外足利
  の三郎義氏・小山左衛門の尉朝政・三浦兵衛の尉義村・同九郎胤義・長沼の五郎宗政
  ・結城の七郎朝光・宇都宮の彌三郎頼綱・筑後左衛門の尉知重・安達籐九郎右衛門の
  尉景盛・中條籐右衛門の尉家長・同苅田平右衛門の尉義季・狩野の介入道・宇佐美右
  衛門の尉祐茂・波多野の小次郎忠綱・松田の次郎有経・土屋の彌三郎宗光・河越の次
  郎重時・同三郎重員・江戸の太郎忠重・渋河武者所・小野寺の太郎秀通・下河邊庄司
  行平・園田の七郎、並びに大井・品河・春日部・潮田・鹿嶋・小栗・行方の輩、兒玉
  ・横山・金子・村山党の者共皆鞭を揚ぐ。關戸の大将軍は式部の丞時房・和田左衛門
  の尉義盛なり。前後の軍兵雲霞の如くして、山に列なり野に満つ。午の刻に各々武蔵
  の国二俣河に於いて重忠に相逢う。重忠去る十九日小衾郡菅谷の館を出て、今この駅
  に着くなり。折節舎弟長野の三郎重清信濃の国に在り。同弟六郎重宗奥州に在り。然
  る間相従うの輩、二男小次郎重秀・郎従本田の次郎近常・榛澤の六郎成清已下百三十
  四騎、鶴峯の麓に陣す。而るに重保今朝誅を蒙るの上、軍兵また襲来するの由、この
  所に於いてこれを聞く。近常・成清等云く、聞く如きは、討手幾千万騎を知らず。吾
  衆更に件の威勢に敵し難し。早く本所に退き帰り、討手を相待ち合戦を遂ぐべしと。
  重忠云く、その儀然るべからず。家を忘れ親を忘るは、将軍の本意なり。随って重保
  誅せらるの後、本所を顧みること能わず。去る正治の比、景時一宮の館を辞し、途中
  に於いて伏誅す。暫時の命を惜しむに似たり。且つまた兼ねて陰謀の企て有るに似た
  り。賢察を恥ずべきか。尤も後車の誡めを存ずべしと。爰に襲来の軍兵等、各々意を
  先陣に懸け、誉れを後代に貽さんと欲す。その中、安達籐九郎右衛門の尉景盛、野田
  の與一・加治の次郎・飽間の太郎・鶴見の平次・玉村の太郎・與籐次等を引率しをは
  んぬ。主従七騎、先登に進み弓を取り鏑を挟む。重忠これを見て、この金吾は弓馬放
  遊の旧友なり。万人を抜き一陣に赴く。何ぞこれを感ぜざらんや。重秀彼に対し、命
  を軽んずべきの由下知を加う。仍って挑戦数反に及ぶ。加治の次郎宗季已下、多く以
  て重忠が為に誅せらる。凡そ弓箭の戦い、刀劔の諍い、刻を移すと雖もその勝負無き
  の処、申の斜めに及び、愛甲の三郎季隆が発つ所の箭、重忠(年四十二)の身に中た
  る。季隆即ち彼の首を取り相州の陣に献る。その後、小次郎重秀(年二十三、母は右
  衛門の尉遠元女)並びに郎従等自殺するの間、縡無為に属くと。
  今日未の刻、相州室(伊賀の守朝光女)男子平産(左京兆これなり)す。

[北條九代記]
  畠山の次郎重忠、二俣河に於いてこれを誅せらる。重忠は時政前妻の聟なり。朝政は
  後妻の聟なり。当妻の奸曲に依って、重忠並びに一族誅せらる。

**[愚管抄]
  関東に勢もあり。さもすこしむつかしかりぬべき武士庄司二郎しげただなど以下皆う
  ちてけり。重忠は武士の方はそのみたりて第一に聞こえき。さればうたれけるにもよ
  りつく人もなくて、終に我とこそ死にけれ。
 

6月23日 己酉 晴
  未の刻、相州已下鎌倉に帰参せらる。遠州戦場の事を尋ね申さる。相州申されて云く、
  重忠弟・親類大略以て他所に在り。戦場に相従うの者、僅かに百余輩なり。然れば謀
  反を企てる事すでに虚誕たり。若くは讒訴に依って誅戮に逢うか。太だ以て不便なり。
  斬首を陣頭に持ち来る。これを見て年来合眼の昵みを忘れず、悲涙禁じ難しと。遠州
  仰せらるの旨無しと。酉の刻に鎌倉中また騒動す。これ三浦平六兵衛の尉義村重ねて
  思慮を廻し、経師谷の口に於いて、謀って榛谷の四郎重朝・同嫡男太郎重季・次郎季
  重等を討つなり。稲毛入道大河戸の三郎の為に誅せらる。子息小澤の次郎重政は、宇
  佐美の與一これを誅す。今度の合戦の起りは、偏に彼の重成法師が謀曲に在り。所謂
  右衛門権の佐朝雅、畠山の次郎に遺恨有るの間、彼の一族反逆を巧むの由、頻りに牧
  の御方(遠州室)に讒し申すに依って、遠州潛かにこの事を稲毛に示し合さるるの間、
  稲毛親族の好を変じ、当時鎌倉中兵起有るの由、消息を重忠に就く。途中に於いて不
  意の横死に逢う。人以て悲歎せざると云うこと莫しと。
 

6月26日 壬子
  関東国々の守護検断・地頭所務以下の事、先規に任せ厳密の沙汰を致すべきの由仰せ
  有りと。
 

6月27日 [明月記]
  関東に兵乱有り。庄司次郎某誅せられをはんぬと。時政脚力を以てこれを申す。
 

6月28日 甲寅
  武蔵の国久下郷を以て勝長寿院彌勒堂領に寄進せらると。
 

6月29日 乙卯
  相州鶴岡の供僧等を屈し、一日中大般若経一部を転読せらる。御宿願有り。殊に丹誠
  を凝らすと。