8月2日 丙辰 晴
京都に発遣するの飛脚関東に帰参す。金吾伏誅の由これを申す。
8月5日 己未 霽
子の刻に大岡備前の守時親出家す。これ遠州落餝せらる事に依ってなり。
8月7日 辛酉 陰
宇都宮の彌三郎頼綱が謀叛発覚す。すでに一族並びに郎従等を引率し、鎌倉に参らん
と擬すの由風聞有るに依って、相州・廣元朝臣・景盛等、尼御台所の御亭に参り、評
議有り。事訖わり小山左衛門の尉朝政(曳柿の水干袴を着す)を召す。朝政参上し、
相州の御座に対し蹲踞す。廣元仰せを奉りて云く、近日諸人の狼唳相続せしめ、東関
静謐ならず。その慎みこれ重きの処、頼綱また奸曲を巧み、将軍家を謀り奉らんと欲
すと。而るに朝政が曩祖秀郷朝臣将門を追討し勧賞に預かる。以来下州を護り、その
職未だ中絶せず。国内(宇都宮)の驕奢、爭かこれを鎮めざらんや。随って去る寿永
二年、志田三郎先生が蜂起を対治するの間、都鄙動感す。仍って賞を行わるるの間、
御下文の旨趣厳密なり。これ武芸の眉目なり。然らばまた頼綱が驕りを退くべしてえ
り。朝政申して云く、頼綱は外家の好有り。縦え厳命に応じその昵みを変ずと雖も、
忽ち追討使を奉ること芳情無からんや。他人に仰せらるべきか。但し朝政叛逆に與同
せず。防戦に於いては、筋力を尽すべきの由これを辞し申す。
8月11日 癸酉 晴
宇都宮の彌三郎頼綱状を相州に献る。朝政状を彼の文に相副え取り進す。これ謀計を
存ぜざるの由陳じ申す。蓋し朝政が教訓を得るの故なり。これに就いて大官令の如き
清談を凝らし、御報に能わずと。
8月15日 己巳 甚雨
鶴岡放生会、将軍家御出で無し。駿河の前司季時奉幣の御使いたりと。
8月16日 庚午 霽
将軍家また御出で無し。季時の参宮昨に同じ。今日宇都宮の彌三郎頼綱下野の国に於
いて遁俗す(法名蓮生)。同じく出家の郎従六十余人と。
8月17日 辛未 晴
蓮生法師宇都宮を立ち鎌倉に進発す。これその誤り無きの由謝し申さんが為と。
8月19日 癸酉
宇都宮の彌三郎入道蓮生鎌倉に到着す。相州の御亭に参ると雖も、対面し給わず。結
城の七郎朝光に付け髻を献ず。これ陳謝の余りなり。朝光慇懃にこれを執り申す。髻
に於いては、御覧を経るの後朝光に預けらるる所と。