1205年 (元久2年 乙丑)
 
 

8月2日 丙辰 晴
  京都に発遣するの飛脚関東に帰参す。金吾伏誅の由これを申す。
 

8月5日 己未 霽
  子の刻に大岡備前の守時親出家す。これ遠州落餝せらる事に依ってなり。
 

8月7日 辛酉 陰
  宇都宮の彌三郎頼綱が謀叛発覚す。すでに一族並びに郎従等を引率し、鎌倉に参らん
  と擬すの由風聞有るに依って、相州・廣元朝臣・景盛等、尼御台所の御亭に参り、評
  議有り。事訖わり小山左衛門の尉朝政(曳柿の水干袴を着す)を召す。朝政参上し、
  相州の御座に対し蹲踞す。廣元仰せを奉りて云く、近日諸人の狼唳相続せしめ、東関
  静謐ならず。その慎みこれ重きの処、頼綱また奸曲を巧み、将軍家を謀り奉らんと欲
  すと。而るに朝政が曩祖秀郷朝臣将門を追討し勧賞に預かる。以来下州を護り、その
  職未だ中絶せず。国内(宇都宮)の驕奢、爭かこれを鎮めざらんや。随って去る寿永
  二年、志田三郎先生が蜂起を対治するの間、都鄙動感す。仍って賞を行わるるの間、
  御下文の旨趣厳密なり。これ武芸の眉目なり。然らばまた頼綱が驕りを退くべしてえ
  り。朝政申して云く、頼綱は外家の好有り。縦え厳命に応じその昵みを変ずと雖も、
  忽ち追討使を奉ること芳情無からんや。他人に仰せらるべきか。但し朝政叛逆に與同
  せず。防戦に於いては、筋力を尽すべきの由これを辞し申す。
 

8月11日 癸酉 晴
  宇都宮の彌三郎頼綱状を相州に献る。朝政状を彼の文に相副え取り進す。これ謀計を
  存ぜざるの由陳じ申す。蓋し朝政が教訓を得るの故なり。これに就いて大官令の如き
  清談を凝らし、御報に能わずと。
 

8月15日 己巳 甚雨
  鶴岡放生会、将軍家御出で無し。駿河の前司季時奉幣の御使いたりと。
 

8月16日 庚午 霽
  将軍家また御出で無し。季時の参宮昨に同じ。今日宇都宮の彌三郎頼綱下野の国に於
  いて遁俗す(法名蓮生)。同じく出家の郎従六十余人と。
 

8月17日 辛未 晴
  蓮生法師宇都宮を立ち鎌倉に進発す。これその誤り無きの由謝し申さんが為と。
 

8月19日 癸酉
  宇都宮の彌三郎入道蓮生鎌倉に到着す。相州の御亭に参ると雖も、対面し給わず。結
  城の七郎朝光に付け髻を献ず。これ陳謝の余りなり。朝光慇懃にこれを執り申す。髻
  に於いては、御覧を経るの後朝光に預けらるる所と。