1205年 (元久2年 乙丑)
 
 

閏7月19日 甲辰 晴
  牧の御方奸謀を廻らす。朝雅を以て関東の将軍と為し、当将軍家(時に遠州亭に御座
  す)を謀り奉るべきの由その聞こえ有り。仍って尼御台所、長沼の五郎宗政・結城の
  七郎朝光・三浦兵衛の尉義村・同九郎胤義・天野の六郎政景等を遣わし、羽林を迎え
  奉らる。即ち相州亭に入御するの間、遠州召し聚めらるる所の勇士、悉く以て彼の所
  に参入し、将軍家を守護し奉る。同日丑の刻、遠州俄に以て落餝せしめ給う(年六十
  八)。同時に出家するの輩勝計うべからず。
 

* [愚管抄]
  時政わかき妻をもうけ、この妻は大舎人允宗親と云ける者のむすめなり。せうととて
  大岡判官時親とて五位の尉になりてありき。その宗親、頼盛入道がもとに多年つかい
  て、駿河の国の大岡の牧と云所をしらせけり。むすめの嫡女には朝雅とて源氏にて有
  けるは惟義が弟にや。頼朝が猶子ときこゆる。この朝雅をば、京へのぼせて院に参ら
  せて御笠懸の折も参りなんどしてつかはせけり。
  さて関東にて又実朝をうちころして、この朝雅を大将軍にせんと云ことをしたくする
  由を聞て、母の尼君(政子)さはぎて、三浦の義村と云をよびて、かかる事聞に一定
  なり。これたすけよ。いかがせんずるとありければ、義村よき謀の者にて具して義時
  が家にをきて、何ともなくてわざと郎等をもよをしあつめさせて、いくさ立て将軍の
  仰なりとて、この祖父の時政が鎌倉にあるをよび出して、もとの伊豆国へやりてけり。
 

閏7月20日 乙巳 晴
  辰の刻、遠州禅室伊豆北條郡に下向し給う。今日相州執権の事を奉らしめ給うと。今
  日前の大膳大夫屬入道・籐九郎右衛門の尉等、相州の御亭に参会し評議を経られ、使
  者を京都に発せらる。これ右衛門権の佐朝雅を誅すべきの由、在京御家人等に仰せら
  るるに依ってなり。

[北條九代記]
  時政の結構露顕するの間、実朝義時が館に逃れ籠もる。仍って義時並びに二位家の計
  らいとして、時政を伊豆の国修善寺に押し籠む。
 

閏7月25日 庚戌 晴
  去る二十日進発の東使、今日夜に入り入洛す。即ち事由を在京の健士に相触ると。


閏7月26日 辛亥 晴
  右衛門権の佐朝雅朝仙洞に候ず。未だ退出せざるの間、囲碁会有るの処、小舎人童走
  り来たり、金吾を招き追討使の事を告ぐ。金吾更に驚動せず。本所に帰参し、目算せ
  しむの後、関東より誅罰の専使を差し上さる。遁避するに拠無し。早く身の暇を給う
  べきの旨奏しをはんぬ。六角東洞院の宿盧に退出するの後、軍兵五條判官有範・後藤
  左衛門の尉基清・源三左衛門の尉親長・佐々木左衛門の尉廣綱・同彌太郎高重以下襲
  い到る。暫く相戦うと雖も、朝雅度を失い逃亡し松坂の辺に遁る。金持の六郎廣親・
  佐々木三郎兵衛の尉盛綱等彼の後を追うの所、山内持壽丸(後六郎通基と号す。刑部
  大夫経俊六男)右金吾を射留むと。

[明月記]
  鶏鳴の後、舎人男奔り来たりて云く、院の御所の武士群集す。旌旗その数有り。驚起
  し人を以て伺わしむ。出入りを禁じ門を固むと。更に心得ず。未明馳せ参殿す。小時
  出御す。仰せに云く、この丑の時義成申して云く、関東より実朝加判の示し送る状に
  云く、朝雅謀反の者なり。在京の武士駈せ畿内の家人を追討すべきてえり。仍って院
  の御所に馳参すと。或る説ニ云く、時政嫡男相模の守義時時政に背き、将軍実朝母子
  と同心し、継母の党を滅すと。これまた実否を知らず。この間朝雅従類を召し聚めそ
  の家に在り。(中略)二條大路に於いて武士に逢う。御所よりすでに朝雅の宅に向か
  うと。予蓬門に入り小食休息の間、南方に火を見る。御方よりこれを放つと。この間
  すでに陣を張り挑戦すと。官軍甚だ少し。先登の輩多く流れ矢に中たり逃げ帰ると。
  京中の怖畏喩えに取るもの無し。巳の時ばかりに官軍悉く疵を蒙る。(中略)相逢う
  皆云く、武蔵すでに逃げ去り、その宅を壊し取る所なり。申の時ばかりに又人云く、
  朝雅が首すでに以て到来す。金持と云う武士追い得てこれを打ち取る。これまた私の
  意趣有りと。人々云く、時政朝臣頼家卿の如く、伊豆山に幽閉せられ出家すと。申の
  終わりばかりに天下忽ち無為す。朝雅夜前勤番し内に候ず。北面の人々絵(蓮華王院)
  を見る。相共に見るの間、所従来たり密語の事有り。暫く問答に立つ。後復座し猶絵
  を見る。頗る程を経て、聊か急事に依って罷出帰参すべき由、人々に触れ退出すと。
  この時初めて聞くか。

[愚管抄]
  京に朝雅があるを、京にある武士どもにうてと云仰てこの由を院奏してけり。京に六
  條東洞院に家つくりて居たりける。武士ひしと巻てせめければ、しばしはたたかいて
  終に家に火かけ、打出て大津の方へ落にけり。わざとうしろをばあけて落さんとしけ
  るなるべし。山科にて追武士共もありければ、自害して死ける頸を、伯耆国守護武士
  にてかなもちと云者ありける。取てもて参りければ、院は御車にて門に出て御覧じけ
  ると聞こえき。
 

閏7月29日 甲寅
  河野の四郎通信勲功他に異なるに依って、伊豫の国の御家人三十二人守護の沙汰を止
  め、通信が沙汰と為す。御家人役を勤仕せしむべきの由、御書(将軍御判を載す)を
  下さる。件の三十二人の名字、御書の端に載せらるる所なり。善信これを奉行す。
    頼季(浅海太郎、同舎弟等)  公久(橘六)   光達(新三郎)
    高茂(浮穴大夫)  高房(田窪太郎、同舎弟)  家員(白石三郎)
    兼恒(高野小大夫、同舎弟)  清員(埴生太郎、同舎弟)  實蓮(眞詮房)
    重仲(井門太郎)  山前権太(同子)    信家(大内三郎、同弟)
    高久(十郎大夫)  余戸源三入道(俊恒)  高盛(久万太郎大夫、同舎弟)
    永助(久万太郎)  安任(江四郎大夫)   家平(吉木三郎)
    高兼(日吉四郎、同舎弟)長員(別宮大夫)  頼高(別宮新大夫、同舎弟)
    吉盛(別宮七郎大夫)  安時(三嶋大祝)  頼重(彌熊三郎)
    遠安(籐三大夫、同舎弟)信任(江二郎大夫) 紀六太郎
    信忠(寺町五郎大夫)  時永(寺町小大夫) 助忠(主籐三)
    忠貞(寺町十郎)    頼恒(太郎)
       已上三十二人と。

[伊豫大山積神社文書]
**関東下知状
     (花押)
  通信相共に候ず御家人交名の事
   (交名同上)
  右、件の御家人等、守護所の沙汰を止め、通信の沙汰として、御家人役を勤仕せしむ
  べきなり。但し犯過を致す輩に於いては、通信の沙汰として、召し進すべきの状、鎌
  倉殿の仰せに依って、下知件の如し。
    元久二季閏七月 日

[明月記]
  巷説に云く、佐々木中務入道(一日官軍として先登の輩なり)追討せらるべきの由を
  称し、従類を召し聚め門を閉ざす。甲士雲の如し。京中また騒動す。