1205年 (元久2年 乙丑)
 
 

10月2日 天晴 [明月記]
  申の時ばかりに巷説、天台山の諸堂焼亡す。堂衆を安堵せしむべきの由宣下有るに依
  って、学徒構う所と。後聞。中堂纔に残る。大略放火か。堂衆・学生の所為両知らず
  と。焼亡の所、法華堂・常行堂・講堂・四王院・延命院・鐘楼・御佛院・新造院・文
  殊楼・五大堂・宝蔵二宇・彼岸所・桜本房・円融房・極楽房なり。
 

10月10日 癸亥
  駿河の前司季時京都守護の為上洛す。
 

10月13日 丙寅 晴
  五條判官有範が使者京都より参着す。申して云く、去る二日子の刻、叡山法華堂の渡
  廊放火。講堂・四王院・延命院・法華堂・常行堂・文殊楼・五佛院・實相院・丈六堂
  ・五大堂・御経蔵・虚空蔵王・惣社・南谷・彼岸所・円融坊・極楽坊・香集坊皆以て
  灰塵と為す。余炎中堂に及ばんと欲すの間、本尊十二神将像を随自意堂に渡し奉りを
  はんぬ。前唐院の聖教・宝物等法華・常行堂より取り出し奉り、供養法食堂に於いて
  これを修す。放火の事、堂衆の所行かの由その疑い有りと。当山、桓武天皇の御宇延
  暦四乙丑七月二十日、伝教大師纔にこれを始め、根本中堂を草創するより以降、朱雀
  院承平五年乙未三月十六日火災、中堂(本尊これを取り出し奉る)已下堂舎・僧坊四
  十余箇所焼亡す。村上天皇康保二年乙丑十月二十八日戊子亥の刻、延暦寺講堂・文殊
  楼・延命院の本堂東・法華三昧・常行三昧堂・鐘楼及び僧坊等三十一宇一時に焼失
  す。時に火故座主喜慶坊より出る。但し四王院四天像僅かに存すと雖も、北方像腰よ
  り焼絶し頭足すでに別る。見る者悲涙を拭うと。而るに今年また乙丑の歳十月に当り
  この災い有り。不思儀と謂うべきか。