1206年 (元久3年、4月27日改元 建永元年 丙寅)
 
 

9月25日 天晴 [明月記]
  夜に入り帰参す。即ち神泉より還御の後、人々往々語る。親能入道の辺甲兵群を成し、
  路頭物騒すと。また云く、堂衆三井寺の辺に於いて結党し、夜討ちを企てんと欲す。
  武士漸く参集し、門前に路無しと。人々これを出見す。卿相以下参集す。或いは三井
  寺に問われ、また山門に仰せらる。左中弁奉行す。委しく聞かず。亥の刻ばかりに左
  衛門の尉(某、親能法師子)を以て追討せらると。義成・基清等御所に候す。当参の
  輩皆参る。(中略)三井寺に遣わさるの使い帰参す。堂衆逃げ去るの由を申す。後聞、
  船九艘に乗り湖上に浮かべ逃げ去りをはんぬと。武士その跡を追う。
 

9月26日 天晴 [明月記]
  官軍未だ帰らず。堂衆空しく去る由その聞こえ有り。夜に入り帰参す。門外の警固夜
  前の如し。
 

9月27日 天晴 [明月記]
  今朝伝聞。官軍近江の木戸に於いて堂衆を撃つ。或いは斬首、或いは生虜る。但し官
  兵また疵を痛む者多し。今日入洛の由その聞こえ有り。未の刻馬場殿に出御の後退出
  す。門前武士猶群居す。或いは云く、義成・基清法性寺の北辺に於いて謀反の者を討
  ち梟首す。