1209年 (承元三年 己巳)
 
 

5月5日 丁酉
  出羽の国羽黒山の衆徒等群参す。これ地頭大泉の次郎氏平を訴える所なり。仍って今
  日、仲業奉行として一決を遂ぐ。当山は先例地頭の進止に非ず。且つは入部追捕を停
  止すべきの旨、故将軍の御書分明の間、山内安堵せしむるの処、氏平或いは万八千枚
  の福田・料田を顛倒し、或いは山内の事に於いて口入を致すの條、謂われ無きの由衆
  徒これを申す。氏平指せる陳謝無きの間、先例に背き無道を張行する事、然るべから
  ざるの趣仰せ下さると。


5月12日 甲辰
  和田左衛門の尉義盛、上総の国司に挙任せらるべきの由内々これを望み申す。将軍家
  尼御台所の御方に申し合わせらるるの処、故将軍の御時、侍の受領に於いては、停止
  すべきの由その沙汰をはんぬ。仍って此の如き類を聴かれ、例を始めるの條、女性の
  口入に足らざるの旨御返事有るの間。左右に能わずと。
 

5月15日 丁未
  神嶽並びに岩殿の観音堂に御参り。御還向の間、女房駿河の局の比企谷の家に渡御す。
  山水納涼の地なりと。
 

5月20日 壬子
  法華堂に於いて、故梶原平三景時並びに一類の亡卒等の為仏事を修せらる。導師は眞
  智房法橋隆宣なり。相州参らる。これ日来営中に怪異等有り。また御夢想の告げ有り。
  仍って且つは修善を以て、彼の怨霊を宥められんが為、俄にこの儀に及ぶと。

5月23日 乙卯
  左衛門尉義盛上総の国司所望の事、以前は内々に望むなり。今日すでに款状を大官令
  に付す。始めには治承以後度々の勲功の事を載せ、後には述懐す。所詮一生の余執た
  だこの一事たるの由と。
 

5月26日 己未 霽
  将軍家更に右中将に任ぜしめ給う。
 

5月28日 辛酉
  西浜(これ飯嶋と号す)の辺騒動す。これ梶原兵衛太郎家茂小坪浦に逍遙し、帰去の
  処、土屋の三郎宗遠兼ねて宿意有るに依って、和賀江の辺に相逢い、家茂を殺害する
  が故なり。宗遠即ち御所に馳参す。和田兵衛の尉常盛に付け大刀を進す。仍ってその
  身を義盛に召し預けらるるなり。