1209年 (承元三年 己巳)
 
 

12月1日 辛酉
  御台所の御方に祇候する諸大夫・侍等、将軍御出の供奉に随うべし。また彼の新恩に
  募り、平均の公事を勤むべきの由、今日これを定めらると。
 

12月11日 辛未
  美作蔵人朝親と小鹿嶋の橘左衛門の尉公業と楚忽の合戦を致さんと欲す。相互の縁者
  競い馳す。三浦の一族方人と称し公業が許に来たり加わる。武田・小笠原の輩、又朝
  親を扶けんが為奔集す。将軍家聞こし食し驚くの処、侍所別当義盛に於いては、早く
  も公業方に在り。武州を遣わし宥め仰せらるるの間暫く無為すと。これ朝親・公業等
  が宿所、門扉相対し、共に眼路なり。而るに朝親が妻子細有って、近曽俄に以て逐電
  す。その比秉燭の程、青女一人忽然として公業が門内に入来す。微に月光に当たりこ
  れを観るに、貌殆ど殊妙と謂うべし。その故を知らずと雖も、公業色に耽るの志有り。
  事を問わず合宿し、すでに数日に及ぶ。凶害の者有って、朝親恋慕の砌に行き向かい、
  日来公業彼の女に密通せしめ、結句同家するの由これを語る。仍って宿意を遂げんと
  欲すと。武州仰せを奉り尋ね究めらるるの処、件の妻たるの條異議無きの間、本夫に
  出し渡すべきの旨仰せ有り。公業一旦申すの旨有りと雖も、ただ図らざるの会合なり。
  巨難有るべからざるの由、再往の御沙汰を経られ、更に遁避の術無きに就いて、これ
  を送り遣わすと雖も、重ねて跡を暗ます。朝親猶合戦の儀を備うと。

**[御成敗式目34条]
  一、他人の妻を密懐する罪科の事
    右強姦和奸を論ぜず、人妻を懐抱するの者、所領半分を召され、出仕を罷むべし。
    所帯なくば遠流に処すべし。女の所領同じくこれを召さるべし。所領なくばまた
    配流せらるるなり。(以下略)
 

12月13日 癸酉
  尼御台所並びに将軍家法華堂に参らしめ給う。恒例の御仏事有り。荘厳房行勇御導師
  たりと。
 

12月15日 乙亥
  近国の守護補任の御下文等これを備進す。その中千葉の介成胤は、先祖千葉大夫、元
  永以後当庄検非違所たるの間、右大将家の御時、常胤を以て下総一国の守護職に補せ
  らるるの由これを申す。三浦兵衛の尉義村は、祖父義明、天治以来相模の国の雑事に
  相交わるに依って、同御時、検断の事同じく沙汰を致すべきの旨、義澄これを承りを
  はんぬるの由これを申す。小山左衛門の尉朝政申して云く、本より御下文を帯せず。
  曩祖下野の少掾豊澤当国押領使として、検断の如きの事一向にこれを執行す。秀郷朝
  臣、天慶三年更に官符を賜るの後、十三代数百歳奉行するの間、片時も中絶の例無し。
  但し右大将家の御時建久年中に亡父政光入道、この職を朝政に譲與するに就いて、安
  堵の御下文を賜るばかりなり。敢えて新恩の職に非ず。御不審を散ずべしと称し、彼
  の官符以下の状等を進覧すと。その外の国々、また右大将家の御下文を帯しをはんぬ。
  縦え小過を犯すと雖も、輙く改補せられ難きの趣その沙汰有り。向後殊に懈緩を存ず
  べからざるの由、面々に仰せ含めらる。廣元これを奉行す。
 

12月17日 丁丑
  朝親・公業等が喧嘩の事、重ねて宥め仰せらる。武州御使いたり。仍って朝親、今に
  於いては確執有るべからざるの由これを申す。公業本より所存無しと。
 

12月19日 己卯
  佐々木兵衛太郎入道西仁硯一面を将軍家に献る。重宝なり。三位通盛卿の硯と。殊に
  御自愛有りと。
 

12月23日 癸未
  将軍家勝長寿院・永福寺・法華堂等に御参り。供奉人済々焉たり。