1209年 (承元三年 己巳)
 
 

11月1日 辛卯
  鶴岡宮の神楽なり。将軍家御出無し。遠江の守源の親廣奉幣の御使いとして宮寺に参
  る。
 

11月4日 甲午
  小御所東面の小庭に於いて、和田新左衛門の尉常盛以下の壮士等切的を射る。これ弓
  馬の事、思し食し棄てらるべからざるの由、相州諫め申すに依って興行せらるる所な
  り。故に勝負有るべしと。
 

11月5日 乙未
  相模の国大庭の御厨の内に大日堂有り。本尊は殊なる霊仏なり。故将軍の御帰依等閑
  ならず。而るに近年破壊するの由聞こし食し及ばるるに就いて、損色を召し修造を加
  うべきの旨、今日相州に仰せらると。
 

11月7日 丁酉
  去る四日の弓勝負の事、負方の衆所課物を献ず。仍って営中御酒宴乱舞に及び、公私
  逸興を催す。その次いでを以て、武芸を事と為し、朝廷を警衛せしめ給うは、関東長
  久の基たるべきの由、相州・大官令等諷詞を盡くさると。
 

11月8日 戊戌
  鶴岡神宮寺、常燈を奉るべきの由仰せ下さる。駿河の国益頭庄の乃貢を以て、彼の燈
  油と為すべきの由、相州に仰せらると。
 

11月14日 甲辰
  相州、年来の郎従(皆伊豆の国の住民なり。これを主達と号す)の中、功有るの者を
  以て侍に准うべきの旨、仰せ下さるべきの由これを望み申さる。内々その沙汰有り。
  御許容無し。その事を聴さるるに於いては、然る如きの輩、子孫の時に及び定めて以
  往の由緒を忘れ、誤って幕府に参昇を企てんか。後難を招くべきの因縁なり。永く御
  免有るべからざるの趣、厳密に仰せ出さると。
 

11月20日 庚戌
  諸国の守護人緩怠の間、群盗ややもすれば蜂起せしめ、庄保の煩いたるの由、国衙の
  訴え出来す。これに依って條々の群儀を擬らさる。一身の定役たるに於いては、還っ
  て故実に誇り、懈緩の儀有るべし。結番の人数各々相替え、年限を差し奉行せしむべ
  きか。然らずんば、国々の子細を尋ね聞こし食され、不忠の輩を改めらるべきかの由、
  その沙汰有りと雖も、未だ一決せられず。この次いでを以て、彼の職補任の本の御下
  文等進覧すべきの旨、先ず近国に仰せらる。これ自然の恩沢と勲功の賞との事差別有
  るべきが故なり。義盛・仲業・清定等これを奉行す。
 

11月27日 丁巳
  和田左衛門の尉義盛上総の国司所望の事、内々御計らいの事有り。暫く左右を待ち奉
  るべきの由仰せを蒙る。殊に抃悦すと。