1210年 (承元四年 庚午)
 
 

2月1日 庚申
  町の口の民屋焼亡す。余炎若宮大路に出づ。中條右衛門の尉が家以下災すと。
 

2月5日 甲子
  越後の国菅谷寺は護念上人薫修の遺跡なり。右幕下の御時、興行の御志有りと雖も、
  空御の事出来するの後年序を渉りをはんぬ。先考の御本懐に背くかの由、今更御沙汰
  に及ぶ。彼の寺の辺に便宜の闕所を尋ね出し、奉寄すべきの由今日相州に仰せらると。
 

2月9日 [長門三浦家文書]
**将軍家政所下文案
  将軍家政所下す 周防の国仁保庄住人
   補任地頭職の事
   平重経
  右人、本の如く彼の職に補任するの状、仰せの所件の如し。以て下す。
    承元四年二月九日        案主
                    知家事惟宗(在御判)
  令図書の允清原(在御判)
  別当相模の守平朝臣(在御判) (以下略)
 

2月10日 己巳
  紀伊の国安弖川庄の地頭職は、故右大将軍の御時、高野大塔造営奉行の賞として高雄
  の文覺房に賜りをはんぬ。御素意彼の一身に限らるるの処、この間湯浅兵衛の尉宗光、
  上人の譲状を得たりと称し、安堵の御下文を望み申す。御沙汰を経られ、件の地頭職
  を以て、子細を申さずば左右無く譲補し難し。輙く許容せらるべからざるの由これを
  仰せらると雖も、宗光御家人としてその功有るの上、新恩に准へ充て給うべきの旨、
  頻りに愁い申すに依って、今日政所御下文を成さるると。

[高野山文書]
  源頼朝下文案
      在御判
    紀伊の国安世川下司職の事
   右、高雄の上人の沙汰たるべきの状、件の如し
    建久八年九月二十一日

  文覺譲状案
      在文覺房判
    鎌倉殿より安世川下司職を文覺に給て候なり。仍って兵衛殿に譲り進せしめ候。
    天王寺並びに高野大塔の杣事共、能々沙汰せしめ給うべく候。彼の御下文進せし
    め候。謹言
     十月十三日          文覺
    七郎兵衛の尉殿

  将軍家政所下す 紀伊の国阿弖川庄の住人
   地頭職に補任の事
     前の兵衛の尉藤原の宗光
  右の人、相伝職たるに依って、当時の知行相違無し。仍って補任の状仰せの所
  件の如し。
   承元四年二月十日         案主
  令図書の允清原
  別当相模の守平の朝臣
   (以下略)
 

2月21日 庚辰 晴陰
  廣元朝臣の奉行として、御使いを京都に発す。これ明王院僧正公胤、長講堂供養の御
  導師たるべきに依って、上童等の装束を遣わさるるなり。
 

2月24日 癸未 晴 [玉蘂]
  新中将資家朝臣来たり、良久しく言談す。或る人語りて云く、閑院の地造内裏有るべ
  しと。三位中将実朝卿に仰せられ、すでに領状すと。
 

2月29日 戊子 朝雨降る
  和田左衛門の尉が宅以南焼亡す。南風烈しく、片時に人屋数十宇災す。

[玉蘂]
  昼間人走り来たりて曰く、高陽院の辺炎上の事有り。驚き急ぎ直衣を着し馳参す。卿
  相多く以て伺候す。右大将帯劔し伺候す。余同じくこれを帯す。火漸く中ツイシを渡
  る。然りと雖も皆以て打ち散らしをはんぬ。一切別事無しと。