1211年 (承元5年、3月9日建暦元年 辛未)
 
 

3月3日 乙卯
  鶴岡祭並びに一切経会例の如し。但し将軍家御参宮無し。前の大膳大夫廣元朝臣奉幣
  の御使いたり。
 

3月9日 辛酉 天晴 [玉蘂]
  この日改元の事、承元五年を改め建暦元年と為す。当帝始めてこの事有り。
 

3月19日 辛未 晴
  京都の使者到着す。改元の詔書を持参す。去る九日、承元五年を改め建暦元年と為す
  と。また近日南都・北嶺静かならず。去る月二十二日以後山門騒動す。三井寺を焼く
  べきの由風聞有り。二十七日夜雷電の際、奈良法師群を成し蓮花王院の宝蔵に入る。
  兵士を縛り宝蔵を破開し、銀の薬師像一躰・御劔二十を盗み逃げ去る。而るに今月四
  日売銀の事に依って露顕す。その使者搦め取らるるが故、南都蜂起すと。
 

3月23日 乙亥
  山門騒動の事、仰せ下さるるの旨に任せ、京畿の御家人を相催し、園城寺を警固すべ
  きの由、駿河の守季時・左衛門の尉廣綱等に仰せらる。足立の八郎元春御使いたり。