1211年 (承元5年、3月9日建暦元年 辛未)
 
 

4月2日 癸未
  陸奥の国長岡郡小林新熊野社の壇堂舎等は、当国の守秀衡法師の時、豊前の介實俊奉
  行として造営を加え、剰え秀衡、元暦二年八月郡内の荒野三十町を以てこれを奉寄す。
  文治五年八月右大将家奥州に入御するの次いでに、狼藉を止むべきの由御教書を下さ
  れをはんぬ。その後畠山の次郎重忠当郡を知行するの時、殊に以てこれを崇敬す。而
  るにこの間住僧隆慶参訴して云く、平の資幹地頭と称し、恣に神田を押領するの由と。
  仍って一決を遂げるの処、資幹申して云く、重忠件の寺社を管領するの間、先例を守
  り沙汰を致すの上は、寺家の訴えに足らず。然れども敬神の儀を以て十町を加え、四
  十町の神田と為すべきの由申すの間、問注所よりこれを勘じ申すに就いて、今日御前
  に於いてその沙汰有り。社壇は實俊が私の建立と謂うべし。神田は勅免の地に非ず。
  縦え顛倒せしむと雖も、定めて訴えるに所無きか。資幹十町を奉寄するの條、頗る物
  儀に背かざるか。爾れば則ち四十町を免除致すべし。その外は隆慶が異論を停止すべ
  きの旨、直に仰せ出ださる。図書の允清定これを奉行す。
 

4月3日 甲申
  鶴岡の臨時祭なり。将軍家御参宮無し。廣元朝臣奉幣の御使いとして神事を執行すと。
 

4月13日 甲午
  相州伊豆の国に下向せらる。来十六日三嶋社の神事たるに依ってなり。
 

4月16日 丁酉
  由比浜に於いて千番の小笠懸有り。三嶋御祭の故なり。胤長以下その射手たり。義盛
  これを奉行す。
 

4月21日 壬寅
  相州伊豆の国より帰参せらると。
 

4月29日 庚戌 陰
  未明に将軍家永福寺に渡御す。相模の太郎殿御共に候じ給う。その外範高・知親・行
  村・重胤・康俊等なり。上下歩儀たり。これこの所に於いて、昨朝郭公の初声を聞く
  の由、申すの輩有るに依ってなり。林頭に至り数刻これを待たしめ給うと雖も、その
  声無きの間、空しく以て還御す。今日、当寺の事、行村奉行せしむべきの旨これを仰
  せ付けらる。