4月2日 癸未
陸奥の国長岡郡小林新熊野社の壇堂舎等は、当国の守秀衡法師の時、豊前の介實俊奉
行として造営を加え、剰え秀衡、元暦二年八月郡内の荒野三十町を以てこれを奉寄す。
文治五年八月右大将家奥州に入御するの次いでに、狼藉を止むべきの由御教書を下さ
れをはんぬ。その後畠山の次郎重忠当郡を知行するの時、殊に以てこれを崇敬す。而
るにこの間住僧隆慶参訴して云く、平の資幹地頭と称し、恣に神田を押領するの由と。
仍って一決を遂げるの処、資幹申して云く、重忠件の寺社を管領するの間、先例を守
り沙汰を致すの上は、寺家の訴えに足らず。然れども敬神の儀を以て十町を加え、四
十町の神田と為すべきの由申すの間、問注所よりこれを勘じ申すに就いて、今日御前
に於いてその沙汰有り。社壇は實俊が私の建立と謂うべし。神田は勅免の地に非ず。
縦え顛倒せしむと雖も、定めて訴えるに所無きか。資幹十町を奉寄するの條、頗る物
儀に背かざるか。爾れば則ち四十町を免除致すべし。その外は隆慶が異論を停止すべ
きの旨、直に仰せ出ださる。図書の允清定これを奉行す。
4月3日 甲申
鶴岡の臨時祭なり。将軍家御参宮無し。廣元朝臣奉幣の御使いとして神事を執行すと。
4月13日 甲午
相州伊豆の国に下向せらる。来十六日三嶋社の神事たるに依ってなり。
4月16日 丁酉
由比浜に於いて千番の小笠懸有り。三嶋御祭の故なり。胤長以下その射手たり。義盛
これを奉行す。
4月21日 壬寅
相州伊豆の国より帰参せらると。
4月29日 庚戌 陰
未明に将軍家永福寺に渡御す。相模の太郎殿御共に候じ給う。その外範高・知親・行
村・重胤・康俊等なり。上下歩儀たり。これこの所に於いて、昨朝郭公の初声を聞く
の由、申すの輩有るに依ってなり。林頭に至り数刻これを待たしめ給うと雖も、その
声無きの間、空しく以て還御す。今日、当寺の事、行村奉行せしむべきの旨これを仰
せ付けらる。