1212年 (建暦2年 壬申)
 
 

1月1日 己酉
  相州椀飯を進せらる。御劔は武州持参す。御調度は遠江の守。御行騰・沓は賀茂の冠
  者。御馬五疋例の如し。
 

1月2日 庚戌
  椀飯、前の大膳大夫廣元朝臣沙汰す。
 

1月3日 辛亥
  椀飯、小山左衛門の尉朝政これを進す。御劔持参の役人は結城左衛門の尉朝光と。
 

1月10日 己未 快晴
  御所の心経会を行わる。
 

1月11日 庚申 天顔快晴
  御弓始めなり。
   射手
  一番 小国の源兵衛三郎       工藤の小次郎
  二番 海野の小太郎         藤澤の四郎
  三番 佐原又太郎兵衛の尉      市河の五郎
  四番 愛甲の三郎          佐々木の小三郎
  五番 和田の平太          佐貫の五郎
  以上十人の中、先ず小国の源兵衛三郎頼継を召す。これ無双の精兵なり。而るに弓を
  帯せざるの由申すの間、鎮西以下の諸国進納するの荒木弓等を下さる。これを賜り一
  五度射るの処、毎度その弦絶えをはんぬ。射芸また頗る養由と謂うべし。将軍家御感
  の余り、当座に於いて越前の国稲津保の地頭職を頼継に賜う。件の御下文の書様、弦
  麻の為に知行せしむべしてえり。この頼継は、丹後の守源の頼行の孫、桃園兵衛大夫
  宗頼の子なり。
 

1月19日 戊辰 晴
  将軍家鶴岡八幡宮に御参り。相州・前の大膳大夫・安藝権の守範高・相模権の守経定
  ・美作蔵人朝親・民部の丞康俊・和田左衛門の尉義盛・同新左衛門の尉常盛・小山左
  衛門の尉朝政・同七郎左衛門の尉朝光・三浦兵衛の尉義村・東の平太重胤・葛西兵衛
  の尉清重等供奉す。先ず大須賀の四郎胤信を召し、御調度を懸くべきの由仰せらるる
  の処、これを固辞す。仰せに云く、当役に於いては、右大将家の御時、二十の箭を以
  て二十人の敵を射取るべきの者候すべきの由定められをはんぬ。然からばこれを奉る
  勇士は、面目を備うべきの処、下劣の職と称し遁避するの條、甚だ自由なり。早く出
  仕を止むべきの旨御気色を蒙ると。和田新左衛門の尉常盛この役に随うと。
 

1月26日 甲戌 霽
  将軍家二所御精進始め。親職日次を撰び申すなり。