1212年 (建暦2年 壬申)
 
 

2月1日 戊寅
  未明、将軍家和田新兵衛の尉朝盛を以て御使いとして、梅花一枝を塩谷兵衛の尉朝業
  に送り遣わさる。この間仰せて云く、名謁らず、誰にかみせむとばかり云て、御返事
  を聞かず帰参すべしと。朝盛御旨に違わず、即ち走り参る。朝業追って一首の和歌を
  奉る。
   うれしさもにほひも袖にあまりけりわかためをれるむめのはつ花
 

2月3日 庚辰 晴
  辰の刻、将軍家並びに尼御台所二所に御進発。相州・武州・修理の亮以下扈従すと。
 

2月8日 乙酉
  将軍家以下二所より御帰着。
 

2月14日 辛卯
  武蔵の国国務の間の事、時房朝臣興行の沙汰を致され、郷々に於いて郷司職を補せら
  る。而るに匠作(泰時)聊か執り申さるるの旨有りと雖も、入道武蔵の守義信が国務
  の例に任せ、沙汰せしむべきの旨仰せ下さるるの間、その趣を存ずる所なり。領状し
  難きの由答え申さると。
 

2月19日 丙申
  京都大番懈緩の国々の事、聞こし召さるるに就いての後、今日その沙汰有り。向後に
  於いては、一箇月故無く不参せしめば、二箇月勤め加うべきの由、諸国の守護人等に
  仰せらる。義盛・義村・盛時これを奉行すと。
 

2月22日 天陰 [明月記]
  御輿屋に於いて前の院主に謁す。語りて云く、大衆物騒と。今夜明暁三井寺を焼くべ
  きの由結構す。その聞こえ有り。三井寺また警固極まり無しと。
 

2月23日 天晴 [明月記]
  去る夜大津の在家焼亡す(自然の事と)。これに依って人々騒動す。但し上聞に達し、
  頻りに両方を制止せらると。この事の起こりは、山下法師四人浜に於いて路人の太刀
  を奪う。彼の本主大津に於いて叫喚す。三井寺の僧従者等群を成し搦めるの処、盗犯
  即ち三人を斬首す。この事に依って山法師原またこの儀を成す。当時これを制止すと。
 

2月24日 [玉蘂]
  宰相中将来たり。談りて云く、閑院大内に造り模せらるべし。便宜の指図上皇宸作す
  と。すでに関東に遣わしをはんぬ。七月以前に還幸と。甚だ神妙々々。
 

2月25日 壬寅
  御持仏堂に於いて恒例の文殊供養有り。導師は隆宣法橋と。
 

2月27日 [皇帝紀抄]
  今夜盗人等蓮花王院の宝蔵の戸を焼き、御劔以下の物等を犯し取る。
 

2月28日 乙巳
  相模の国相模河の橋数箇間朽ち損ず。修理を加えらるべきの由、義村これを申す。相
  州・廣元朝臣・善信が如き群議有り。去る建久九年、重成法師これを新造す。供養を
  遂げるの日、結縁の為故将軍家渡御す。還路に及び御落馬有り。幾程を経ず薨じ給い
  をはんぬ。重成法師また殃に逢う。旁々吉事に非ず。今更強て再興有らずと雖も、何
  の殃事有るやの趣一同するの旨、御前に申すの処、仰せに云く、故将軍の薨御は、武
  家の権柄を執ること二十年、官位を極めしめ給う後の御事なり。重成法師は、己が不
  義に依って天譴を蒙るか。全く橋建立の過に非ず。この上は一切不吉を称すべからず。
  彼の橋有らば、二所御参詣の要路として、民庶往反の煩い無し。その利一に非ず。顛
  倒せざる以前に、早く修理を加うべきの旨仰せ出ださると。