1212年 (建暦2年 壬申)
 
 

4月6日 壬午 晴
  戌の刻、将軍家御病悩。而るに小御所の東面柱の根に於いて花開く。仍って天地災変
  ・鬼気等の祭を行うべきの由、相州申さしめ給う。また鶴岡の供僧等仰せを奉り、大
  般若経を転読す。
 

4月8日 甲申 晴
  寅の刻、御所に於いて、親職・泰貞御祭等を奉仕す。相州(布衣)その所に向かわし
  め給う。
 

4月10日 [玉蘂]
  早旦大外記師重聞書を送らる。蔵人家光検非違使に補す。師卿の嫡男(第三男、年十
  四)なり。文章の家を継ぐと。非蔵人一人放簡しをはんぬ。関東の住人たるに依って
  なり。
 

4月18日 癸卯 晴
  将軍家の御願として、大倉郷に一勝地を卜し、一寺を始めしめ給う。今日午の刻立柱
  ・上棟なり。これ君恩・父徳に報いられんが為と。相州・武州・大官令等参向せらる。
  戌の刻、この所に於いて水神並びに七座土公祭を行わる。橘三蔵人奉行すと。