1213年 (建暦3年、12月6日改元 建保元年 癸酉)
 
 

8月1日 己巳 天霽
  将軍家、御所作事の間御方違え有り。東殿(尼御台所の御第)に渡御す。御本所たる
  に依ってなり。相州・大官令等参らると。
 

8月3日 辛未 天晴風静まる
  今日申の刻御所の上棟なり。相州以下諸人群参す。その時刻に由緒無くして俄に騒動
  有り。御家人等競い走る。相州行親・忠家等に仰せ鎮めらるるの間、程無く各々静謐
  すと。

[明月記]
  伝聞、山僧少々祇園に入りその門を鎖し、清水を焼かんと議すと。戒服し、清水また
  日来より城を守ると。所々これを堀切る(皆甲冑を蒙る。三條坊門)。仙洞官軍を召
  さる。制止せんが為か。洞院大路(三條坊門押小路)に在り。また或いは清水に遣わ
  さると。また云く、山の悪徒追い来たり加わり、河東に横行すと。炎旱すでに久し。
  兵革静かならず。申の時ばかりに閭巷の説に云く、山法師長楽寺に籠もり、清水に寄
  せんと欲す。上下北面の衆・主典代・廰官等を遣わし、頻りに止むべき由仰せらる。
  更に承引せざるの間、官兵を遣わし、その法師原を搦め召さるるの間、死傷者多し。
  また僧十余人を縛り、御所の辺に参ると。路頭太だ騒動すと。日入以後御所に参る。
  今日の事を問うに、清水寺城を構え、山僧長楽寺に集会す。先ず検非違使を遣わし清
  水の城郭を破らる。武備を制止し、急ぎ法衣を着し仏前に在るべき由仰せ含めらる。
  寺僧承伏す。穏便の儀なり。相次いで廰官を長楽寺に遣わし、制止せらる処、所司法
  師等僅かに出合い、更に承伏の詞無し。廰官猶衆徒に逢い、綸言を伝うべきの由示し
  合わすの間、悪徒等出来し、妄りに奇怪の詞を吐く。更に身命を惜しむべからず。綸
  言を承り及ばざるの由呵叱し、殆ど放言に及ぶ。廰官当時の恥を遁れんが為還出する
  の間、飛礫を以て門扉を打つ。馳せ帰り奏聞するの間、忽然西面の輩並びに在京の武
  士・近臣の家人等に仰せられ、彼の寺の四至を囲む。一人も泄らさず搦め取るべき由
  宣下す。(中略) 西面の壮士先登の輩、或いは死傷の者有りと。官軍の中多くこれ
  有り。未だ定説を聞かず。近江の守頼茂伏兵を将て嶺東の険阻を遮り、多く山上に逃
  げる者を搦めると。後日彼の朝臣語りて云く、逃げる者多く険阻に赴く。早く罷り向
  い旗を嶺上に指し出すの間、更に還り奔る。登嶺者は幾ばくならず。仍って狼藉に及
  ばず。ただ両三人甲冑を剥ぎ、相具し参るべきなりと。謂う所尤も穏便なり。

[皇帝紀抄]
  延暦寺の衆徒百余人長楽寺に集会す。清水寺を焼き払わんが為なり。これ去る比清閑
  寺領内に清水寺の住僧迎講を為し、娑婆屋を結構す。而るに山門より件の屋を焼かし
  むるに依って、清水寺これを訴え申せしむ。衆徒の張本を責め召さるるの処、勅制に
  拘わらざるに依って、武士並びに西面の輩を遣わし、追い散らさるるの間、両方刃傷
  殺害に及ぶ。
 

8月5日 天晴 [明月記]
  一昨日搦めらる法師原、即ち恩免の由また人々これを称す。始末是非に迷う。大事を
  挙げるの後、また更に宥免す。如何々々。山門の事また聞き分け無き事と。
 

8月6日 甲戌
  新造御所の御障子の画図風情の事、先々の絵御意に相叶わず。職者に仰せ含めらる。
  また御尋ねの旨等有り。仍って今日その事書等を佐々木太郎左衛門の尉廣綱が許に遣
  わさる。御使い紀伊刑部次郎上洛すと。

[明月記]
  遅明巷説に云く、終夜・今朝山の衆徒多く下山し、尊長房を焼かんと欲す。また云く、
  香楽寺(吉水御房)を焼かんと欲す。官軍また戎服を備うと。日出以前に営参す。殊
  なる事無し。西面並びに力者等を以て検知せらるか。且つは帰参して云く、大衆多く
  下山す。但し皆衣を着し頭を裹むと。大略一同の説、下山員を知らず。但し会集の所
  無し。河水の流れの如しと雖も、その朝宗の所無し。これを推すに自然縁々の家々に
  隠居するか。兵具の姿に非ずと。また云く、昨日大略議定しをはんぬ。ただ離山を流
  涕し、中堂・三昧堂を打ち付け、常燈を滅す。七社以下の御簾・神鏡を截り落とし、
  門々を鎖し固む。追放の祠官・宮巫覡等、各々鳴咽し皆同じく下山すと。これただ天
  台仏法磨滅の期か。

[寺門高僧記十]
**後鳥羽上皇院宣
  院宣せられて称く、当山衆徒清閑寺・清水寺堺相論の事に依って、忽ち甲冑を襲う。
  騒動京に下る。仍って廰官を遣わし子細を尋ねらる。且つは堺の事に於いては、道理
  に任せ糺定せらるべし。而るに厳制を憚らず、頻りに以て猥雑の大濫行なり。早く帰
  山せしむべきの由、仰せ含めらるの処、勅定を恐れず、猶群動を成す。仍って武士等
  を遣わし、甲冑を剥却せしむべきの由、召し仰せらるの間、凶徒等官兵に向かい忽ち
  矢を放ちをはんぬ。朝敵と謂うべし。然る間武士数僧徒を召し具し参上す。事の出自
  を図らず。更に子細に及ばず。但し件の輩に於いては、忽ち以て謀叛を帯するの間、
  更に絞斬の罪に拘わらず。然れども圓宗教法を尊崇の余り、その罪赦免せられをはん
  ぬるの由、下知せしめ給うべきの状、院宣此の如し。これを悉せ。謹啓。
    八月六日            按察使光親
  謹上 天台座主房
 

8月9日 [皇帝紀抄]
  左衛門の尉中原尚綱・藤原景家・同久季、左兵衛の尉藤原實員・平直宗・藤原忠村・
  佐伯正任等解官せらる。これ去る三日長楽寺に於いて狼藉を致すに依ってなり。この
  外西面無官の輩十余人使の廰に下さる。
 

8月11日 天晴 [明月記]
  今日風聞す。山門すでに和解す。但し下山の僧徒を相待ち、諸堂を開くべき由を申す
  と。(中略)今朝巷説に云く、関東謀反の輩、将軍の幕下を夜襲し、すでに以て滅亡
  すと。然るべき人の中未だこの事を言わず。且つは相憚るか。但し将軍終命か。誰人
  使者を発すか。
 

8月13日 天晴 [明月記]
  仲重朝臣書状を以て重ねて歌の文書を借る。これを案ずるに関東の事浮説か。将軍和
  歌を好む。此の如き文書を求め、下向を欲するの由密々これを語る。
 

8月14日 壬午 天霽
  京都の飛脚参着す。申して云く、去る月二十五日清水寺の法師一堂を建立す。その地
  清閑寺領に在るの由。彼の寺憤欝し相論するの間、清閑寺は台嶺の末寺たり。山また
  これを咎む。清水寺は南都の末寺たるに依って、奈良殊にこれを怒る。而るに今月三
  日清水寺城を構う。山僧は長楽寺に集会す。公家より先ず検非違使有範・惟信・基清
  等を遣わし、清水の城を破却す。武備を制止し、急ぎ法衣を着し仏前に在るべきの旨
  仰せ含めらる。寺僧これを承伏す。相次いで廰官長季を長楽寺に遣わし、禁制せらる
  の処、所司法師等僅かに相逢い、更に承伏の詞無し。廰官猶衆徒に逢い綸言を伝うべ
  きの由示し含むの間、悪僧等妄りに奇怪の詞を吐く。曽って身命を惜しむべからず。
  綸言を承り及ばざる由呵叱し、殆ど放言に及ぶ。廰官当時の恥を遁れんが為退去する
  の間、飛礫門扉を打つ。馳せ帰り奏聞するの間、忽ち北面の輩並びに在京の健士・近
  臣の家人等に仰せられ、彼の寺の四至を囲む。一人残らず生虜るべきの由宣下す。こ
  れに依って壮士等先登に進む。近江の守頼茂、伏兵を将て嶺東の険阻を遮り、山上の
  者を生虜る。これ悪徒等多く険阻に赴く。仍って先ず家人をしてその所に廻らしめ、
  旗を嶺上に指し上げるの間、更に還り奔る。登嶺者幾ばくならず。時に狼藉に及ばず。
  甲冑を剥ぎこれを相具し参らしむ。殊に叡感に預かる。凡そ生虜三十人、誅せらる者
  十余人なり。同六日、山門の衆徒悉く離山す。中堂・常行三昧堂を打ち付け、常燈を
  滅す。七社以下の御簾・神鏡を截り落とし、門々を鑽し、祠官を追放すと。天台仏法
  魔滅の期に及ぶかと。
 

8月15日 天晴 [明月記]
  関東の事すでに以て無実と。
 

8月17日 乙酉
  京極侍従三位(定家)、二條中将雅経朝臣に付け、和歌の文書等を将軍家に献ず。蓋
  しこれ先日尋ね仰せらるるが故なり。件の双紙等、今日廣元朝臣の宿所に到着す。即
  ち御所に持参するの処、御入興の外他に無しと。
 

8月18日 丙戌 霽
  子の刻、将軍家南面に出御す。時に燈消え人定まり、悄然として音無し。ただ月色の
  蛬思い傷むの心ばかりなり。御歌数首御独吟有り。丑の刻に及び、夢の如くして青女
  一人前庭を奔り融る。頻りにこれを問わしめ給うと雖も、遂に以て名謁らず。而るに
  漸く門外に至るの程、俄に光物有り。頗る松明の光の如し。宿直の者を以て陰陽の少
  允親職を召す。親職衣を倒に奔参す。直に事の次第を仰せらる。仍って勘じ申して云
  く、殊なる変に非ずと。然れども南庭に於いて招魂祭を行わる。今夜着し給う所の御
  衣を親職に賜う。
 

8月19日 丁亥
  丑の刻大地震。
 

8月20日 戊子 天霽風静まる
  将軍家新御所に御移徙なり。御車京都より遅到するの間、御輿を用いらる。酉の刻、
  前の大膳大夫廣元朝臣の第より新御所に入御す。大須賀の太郎道信黄牛を牽く。
  随兵
    三浦左衛門の尉義村       武田の五郎信光
    小笠原の次郎長清        三浦九郎右衛門の尉胤義
    波多野中務の丞忠綱       佐々木左近将監信綱
    小山左衛門の尉朝政       籐右衛門の尉景盛
  前駆
    前の右馬の助範氏        伊賀左近蔵人仲能
    右馬権の助宗保         兵衛大夫季忠
    三條左近蔵人親實        橘三蔵人惟廣
  殿上人 出雲の守長定
  御輿(御簾を上げ御束帯)
  御劔の役人 修理の亮泰時
  御調度懸け 勅使河原の小三郎則直
  御後
    相模の守義時          駿河の守惟義
    武蔵の守時房          前の大膳大夫廣元
     以下数輩(これを略す)
    蔵人大夫朝親          左衛門大夫惟信
    前の皇后宮権の少進盛景     伊賀の守朝光
    筑後の守頼時          狩野民部大夫行光
    山内刑部大夫経俊        善民部大夫康俊
    結城左衛門の尉朝光       伊賀太郎兵衛の尉光季
    中條右衛門の尉家長       加地五郎兵衛の尉義綱
    堺平次兵衛の尉常秀       葛西兵衛の尉清重
    塩谷兵衛の尉朝業        天野右馬の允泰高
    廣澤左衛門の尉實高       大友左衛門の尉義直
  廷尉 山城判官行村
  御輿南門に入御するの比、陰陽の少允親職(束帯)反閇に候す。水火の童女を相具せ
  らる。次いで西廊に於いて御輿より下り御い、反閇に随い寝殿に入御す。移徙の時、
  直に寝殿に入御有るべきこと、今の儀普通の作法に非ざるの由、廣元朝臣頻りに傾け
  申すと。次いで尼御台所入御す。遠江の守親廣・狩野民部大夫行光御輿寄せに候す。
  次いで親職禄(五衣)を賜う。左近蔵人仲能御衣を取り、小御所より進出し、廊に於
  いてこれを給う。親職一拝し退出す。その後椀飯・献盃等の儀有り。相州吉書を持参
  す。寝殿階の間に於いてこれを覧玉う。戌の刻、七十二星西岳真人の符を新御所の寝
  殿御寝所の天井の上に置かる。泰貞奉仕すと。
 

8月22日 庚寅 天晴
  未の刻、鶴岡上宮の宝殿に黄蝶大小群集す。人これを怪しむ。今日、大友左衛門の尉
  義直使節として上洛す。山門騒動の事に依ってなり。
 

8月26日 甲午 天霽
  将軍家廣元朝臣の第に入御す。これ御移徙の後御行始めなり。
    供奉人
  随兵
    小山左衛門の尉朝政       三浦九郎右衛門の尉胤義
    籐右衛門の尉景盛        佐々木左近将監信綱
    善右衛門の尉康盛        武田の五郎信光
    伊豆左衛門の尉頼定       大井右衛門の尉實平
    狩野民部大夫行光        伊賀太郎兵衛の尉光季
  前駆
    前の右馬の助範氏        右馬権の助宗保
    伊賀左近蔵人仲能        三條左近蔵人親實
    橘三蔵人惟廣
  殿上人 出雲の守長定
  御後
    相模の守義時          駿河の守惟義
    武蔵の守時房          遠江の守親廣
    修理の亮泰時          駿河左衛門大夫惟信
    美作左近大夫朝親        伊賀の守朝光
    前の皇后宮権の亮盛景      筑後の守頼時
    山内刑部大夫経俊        善民部大夫康俊
    籐民部大夫行光         三浦左衛門の尉義村
    結城左衛門の尉朝光       中條左衛門の尉家長
    小野寺左衛門の尉秀通      加藤左衛門の尉景長
    嶋津左衛門の尉忠久       宇佐美右衛門の尉祐政
    佐貫兵衛の尉廣綱        江兵衛の尉能範
    江左衛門の尉能親        天野右馬の允泰高
    堺兵衛の尉常秀         波多野中務の丞忠綱
  検非違使 山城判官行村
 

8月28日 丙申 陰
  去る二十二日の鶴岡怪異の事、兵革の兆したるの由、申し入るの輩有るに依って、御
  占いを行わるるの処、御慎み有るべきの旨勘じ申すの間、八幡宮に於いて百怪祭を行
  わる。奉行は遠江の守親廣と。
 

8月29日 丁酉 天霽
  寅の刻、廣元朝臣の息女(年六才)卒去す。亥の刻地震。